1 名前:少考さん ★:2026/04/24(金) 23:42:05.91 ID:bwfXl0hB9.net 京都男児遺体遺棄「報道しすぎ」論にもやもや 個人的で悲惨な事件こそ重大な「政治的事件」だと思う 北原みのり | AERA DIGITAL 連載:おんなの話はありがたい 2026/04/24/ 16:00 作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は京都府南丹市の男児遺体遺棄事件について。 * * * 京都で男児の遺体が義父によって遺棄された事件について。 私はこの1週間海外にいるので、日本のテレビを観ていない。ネットニュースにもあまり触れられていない。だからどのくらいこのニュースが大きく報道されているのか実感がないのだけれど、私のSNSでは、この痛ましい事件について「報道しすぎだ」という類いの批判がこの数日、目立つようになった。“ワイドショーではずっとこの事件をくり返し報道しているが、野次馬根性を満足させているだけだ”というものや、“もっと重要で報ずべき問題があるのに、報道が偏っている”というような声だ。 その通りかもしれない。その通りかもしれないけれど、子どもが殺された事件に「報道しすぎ」というのはどういうことなのか……と、どこかもやもやしてしまう。事件報道の姿勢云々を問うのならまだしも、「もっと大切なニュースがある」といった、私たちにはもっと知るべき重要なニュースがある、という正論を掲げる批判にはどこかひんやりする思いになる。それはそれ、これはこれ、ではないか。 いったい何が起きたのか。なぜ、子どもは死んでしまったのか。なぜ、男は「息子が行方不明になった」と捜査を攪乱したのか。その間、男はどのような顔で過ごしていたのか。そしてなぜ、“私たち”はこの事件にこんなにも動揺してしまうのか。 それらはもちろん、私の人生には関係ないことである。でも、この時代、この社会で起きてしまった事件は、この社会で生きている人の生活と完全には無関係であるとは思えない。知りたい、本当のことを知りたい、凄惨な事件が起きた理由を知りたい、そう渇望してしまう気持ちが、「社会」にはある。それが「事件」というものなのだろう。 それが「野次馬根性だよ」と言われてしまえばその通りなのだろうが、この事件が起きた背景にも社会的に語るべき要素はいくつもあるだろう。義父による子どもの虐待や子殺しの事件が「多いように見える」現実や、大都市から少し離れた京都郊外の「過疎ぶり」など、一つの事件からこの国のリアリティーのようなものが見えてくるところはある。それはもしかしたら、私の隣で起きた事件、かもしれないという痛みと共に。 私はこれまで女性が起こした殺人事件をいくつか取材し、裁判傍聴なども積極的にしてきた。男性3人を練炭を使って殺したとして死刑判決を受けた女性、やはり2人の男性を溺死させたとして死刑判決を受けその後に獄中で誤嚥によるとみられる窒息で死亡した女性、夫の首をノコギリで挽いて殺した70代の女性、20代の男性を監禁して餓死させた50代の女性、無戸籍を装い二回り若い年齢にして就職した女性……自分でもなぜ女性犯罪者の事件にこんなにも惹きつけられるのかわからないが、それはもしかしたら彼女は私だったのかもしれない……もしかしたら彼女は私の隣人だったかもしれない……という思いがあるからだ。 彼女が貧困に陥らなければ、彼女が夫からDVを受けていなければ、彼女が教育を受けられる環境にあれば、女が美醜や年齢で測られるような社会でなければ、もし彼女が男だったならば……女性が起こす事件は、もし彼女が、女が……と無数の「もし」を私に投げかける。 だからこそ私は「女性が起こした事件」を追いかけるのだと思う。なぜ彼女はその道を選んだのか、選ばざるを得なかったのか、または選べる道など最初からなかったのか。 だからこそ、なのだが、今回のような成人男性が起こした大きな事件に触れる度に不思議に思うのだ。なぜ、男性が起こした事件で、「これはもしかしたら自分が起こした事件かもしれない」という視点から事件について考えるような男性からの発信はほとんどないのだろう。 (中略) 私とは無関係の、遠い街で起きた、知らない一家の中で起きた、とても個人的な悲惨な事件。でも、それは私たちの社会と時代に直結している。そしてこういう事件こそが政治的な事件なのだと考えられる想像力が、今の社会には必要なのではないか。 ※全文はソースで 引用元:…