1: 樽悶 ★ Tysh22Vq9 2025-10-10 23:55:35 卑弥呼を女王とする邪馬台国がどこにあったのか、いまだに論争が続いている。駒澤大学名誉教授の瀧音能之さんは「北部九州連合と瀬戸内海東部・畿内連合の大連合によって誕生したのが卑弥呼政権であり、王都として未開拓の畿内が新たに選ばれたと考えられる」という――。 (省略) ■「スサノオ=朝鮮半島からの難民」説 タウポ火山による異常気象は日本や中国のみならず、当然のことながら古代の朝鮮半島にも大きな影響を与えた。『魏志』韓伝では、農民たちが流して韓(朝鮮半島南部)に流入する者が多くいたと記録している。さらにドミノ式に、中国や朝鮮半島の難民が北部九州へと流入してきた。 (省略) スサノオはもともと朝鮮半島の神である可能性が高く、『日本書紀』一書には、地上世界に追放後、朝鮮半島に降り立った後に船で出雲へ来訪する物語を伝える。そのため、スサノオは渡来人を仮託した存在と見ることもできる。 スサノオの訪問に対するアマテラスの対応は、朝鮮半島から流入する難民に対して、警戒する北部九州の様子をあらわしているとも考えられる。 ■難民の流入で北部九州は荒れていった スサノオは侵攻の意思がないことを示すために誓約(うけい)という古代の儀式を行った。これによって潔白が証明されたスサノオはアマテラスのもとに滞在することが許された。ところが、スサノオは田の畔<あぜ>を破壊して埋める、御殿に糞便を撒き散らす、といった悪行を重ねた。 これらのスサノオの悪行とは、北部九州に押し寄せた難民の姿をあらわしているのではないだろうか。北部九州では、難民受け入れ後の土地や住居、食料の不足などによる混乱があったことをあらわしているように読み取れる。 (省略) ところがスサノオの悪行はエスカレートして、馬の皮を剥いで機屋(はたや)に投げ込む暴挙に及び、これに驚いた機織りの女官は女陰を突いて亡くなってしまった。これは難民による暴行をあらわしているとも読み取れる。 (省略) ■神議に集まった神々はどこから来たのか 記紀では、天安河原の神議を開催するにあたって主催者は特に記されておらず、主語は「八百万の神々」となっている。「倭国大乱」によって盟主的存在が失われている状態が、ここからもうかがえる。 (省略) 神議に参加した神々にゆかりが深い地を見てみると、アメノコヤネ(河内)、アメノフトダマ(讃岐・阿波・紀伊、タカミムスヒの子)、イシコリドメ(大和)、タマノヤ(イザナキの子=淡路島)となっており、瀬戸内海東部から畿内にかけての諸勢力が集まっていることがわかる。 ここから見えてくるのは、北部九州との通商交渉のための、瀬戸内海・畿内連合の誕生である。瀬戸内海沿岸部に広がった高地性集落の分布だが、実際に戦闘が行われた痕跡はほとんど発見されていない。北部九州が朝鮮半島からの難民に対処するために結束したのに対して、瀬戸内海東部から畿内の勢力もまた、競争・対立ではなく、連合する道を選び、鉄の安定確保のために一大経済圏を構築したのである。 (省略) ■纏向遺跡は卑弥呼政権の王都以外ありえない 天岩戸開き神話に象徴される北部九州と瀬戸内海東部・畿内の大連合によって誕生したのが卑弥呼政権である。この卑弥呼政権には、アマテラス系統であり北部九州を代表する神聖王(卑弥呼)と、吉備のタカミムスヒ系統で瀬戸内海東部・畿内を代表する執政王(男弟)の二重統治体制でスタートしたと考えられる。 『魏志』倭人伝では、卑弥呼が立てられたのは188年頃とされる。タウポ火山の噴火から10年弱で卑弥呼政権は誕生したことになる。 卑弥呼政権の王都があった邪馬台国がどこにあったか、現在でも畿内説と九州説を主として論争が続いているが、ここでは畿内説を取ることにする。 (省略) 畿内説のウィークポイントは、北部九州の先進性に対して、畿内の後進性が挙げられる。畿内勢力は銅鐸文化圏を形成した一大勢力ではあるが、北部九州や吉備、出雲などに対して、強力な首長は誕生せず、鉄器や銅鏡などの出土数が少ない。 しかし、これまで述べてきた通り、卑弥呼政権はアマテラス系統の北部九州とタカミムスヒ系統の吉備を中心とする勢力との連合政権であり、畿内は必ずしも中心地ではない。二重統治体制を取るにあたって、北部九州と吉備は互いの本拠地を王都にするのではなく、まだ未開拓の畿内が新たに選ばれたと考えられる。(以下ソース) 10/9(木) 17:16配信…