1: 冬月記者 ★ H5yZj2gc9 2025-08-30 00:26:55 『もののけ姫』ラストでアシタカはなぜタタラ場に残った? 「共に生きよう」に隠された“ヤバすぎる覚悟”【ネタバレ考察】 2025年8月29日の「金曜ロードショー」で放送された、宮崎駿監督による不朽の名作『もののけ姫』。 本作は宮崎監督作品の思想が色濃く表れた作品として知られ、なかには「難解」という感想も多くあります。 物語の大枠は、「人間と自然の戦い」として紹介されることも多い本作ですが、シンプルにどちらかが善悪を代表しているわけでもありませんし、単純に自然を守ろうというエコロジーを訴えるというだけの内容でもありません。 そんな本作に秘められた本質は何なのでしょうか。物語の結末から考察します。 ●森にもたらされた不可逆な変化 本作の最終局面は、首を落とされたシシ神がデイダラボッチと化して暴走し、それをアシタカとサンの活躍によって首を返し静まる、そして一夜明けると、深い太古の森は草原に変わっていた、というものです。 シシ神のいた森は、太陽の光も届かない原生林が消失し、きれいでさわやかな緑が生い茂る場所へと変貌します。デイダラボッチの暴走が終わり、穏やかな雰囲気が戻ったことでハッピーエンドのようにも感じられます。 しかし、これは本当に幸福な結末だったのでしょうか。 アシタカとサンがシシ神の首を返すと平穏が訪れますが、うっそうと生い茂っていた深い森は失われ、緑の草原として再生します。 この結末は、自然に不可逆の変化をもたらしています。サンが「蘇っても、ここはもうシシ神様の森じゃない」と言うように、その風景は以前の原生林とは決定的に異なってしまっているのです。 かつて神々が宿っていた原生林は、人間の手がほとんど加わっていない、文字通りの「自然」でした。しかし、シシ神の死を経て再生した草原は、太古から続いていた森の魂のようなものは決定的に失われ、人間に優しい自然になったと見ることもできます。 人間中心主義的な考え方からすれば、人間にとって都合の良い自然になったのならハッピーエンドと言えるかもしれません。 しかし、本作はそういう考え方に立っていない作品のように思えます。人間以外の命も人間と同様に価値あるものであり、弱体化させて穏やかになった自然だけを愛でるのは、傲慢ではないか。そんなメッセージがあるように感じさせます。 歴史をひも解くと、人間が技術を発展させて自然を弱体化させていったことはまぎれもない事実です。戦いの果てに人間に優しい自然だけが残ったというのは、そんな歴史をできるだけリアルに反映させた結末と言えるかもしれません。 そんな本作のラストカットは、森に一匹だけコダマが再生する場面です。純粋な自然の名残がわずかに残されたことがひとつの希望のような形で提示されている点は、自然の生命力の強さを表現していると言えるかもしれません。 本作の終盤、アシタカはサンに向かって「サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう」と告げます。 この発言は、アシタカがサンのことが好きなので一緒に生きていきたいという意味もあるでしょうが、別の決意もあるのではないかと思います。 タタリ神の呪いを受けて故郷を後にしたアシタカは、古い神がタタリ神になった理由を「曇りなき眼(まなこ)で見定める」ために旅に出ています。森を破壊するタタラ場は自然破壊の代表者として本作に登場しますが、同時に行くあてのない虐げられていた人々を受け入れるコミュニティでもあります。 アシタカはそんな現実を目の当たりにして、物語の中でずっと「森とタタラ場、双方生きる道」を模索して、どちらにも肩入れしない存在としてふるまい続けています。 アシタカは分断された世の中で、中道を目指して頑張っている人だと言えます。 これは非常につらい選択です。こういう立場は両方から批判されやすいからです。タタラ場で暮らすという決意は、一見すると人間側に立つという風にも聞こえますが、その後すぐ「共に生きよう」と言っているので、これからもアシタカは森と人間が共に生きられる道を模索するということなのだと考えられます。 続きはリンク先…