第二次世界大戦さなかの1941年12月、ポーランドが日本に宣戦布告しました。海外の掲示板でこの話を紹介した投稿には、日本がそれを受け入れず、「ポーランドの挑戦は受けない。自由のために戦うポーランド人は、イギリスの圧力を受けて宣戦しただけだ」と返した、という一文が添えられていました。宣戦された側が「受け取らない」とは、どういうことなのか。コメント欄では、戦前の日本とポーランドの近さが話題になりました。 ※注:このときのポーランドは、1939年にドイツとソ連に国土を占領され、ロンドンに置かれていた亡命政府です。引用された日本側の言葉は、当時の首相・東條英機の発言として海外で広く出回っていますが、一次史料での裏付けは確認できませんでした(「もう少し詳しく」で触れます)。 今日の知ってた? 📜 1941年12月11日、ロンドンのポーランド亡命政府が日本に宣戦布告した。日本が真珠湾を攻撃し、アメリカ・イギリスとの戦争に踏み切った3日後のことだった。 🙅 日本側はこの宣戦を受け入れなかったとされる。ポーランドの歴史家ヤクプ・ポリト教授によれば、日本側は「挑戦は受けない」と答え、東條英機首相は、独立を求めて戦うポーランドの宣戦はイギリスとアメリカに強いられたものだと受け止めていたという。 ☝️ 第二次世界大戦でポーランドが宣戦布告した相手は日本だけ。しかも日本は、ポーランドを一度も攻撃していなかった。 🕵️ 国交が途絶えたあとも、両国の情報機関の協力は続いていた。 背景:戦前の日本とポーランドは近かった 日本がポーランドの独立を認めたのは、第一次世界大戦が終わった直後の1919年です。遠く離れた2つの国ですが、どちらもロシア(のちのソ連)と国境を接し、この大国を警戒していました。日本とポーランドの関係史を研究するワルシャワ大学のエヴァ・パワシュ=ルトコフスカ教授は、戦間期の両国の関係で重要だったのは主に軍事と諜報の協力で、日本はポーランドの情報将校の能力を高く評価していた、と書いています。東のソ連と西のドイツ、その両方の情報を集めるのに、ポーランドは絶好の場所だったからです。 友好のしるしとしてよく知られる出来事もあります。ポーランド独立の立役者ユゼフ・ピウスツキの判断で、日露戦争(1904〜05年)でロシアと戦った日本の将校51人に、ポーランド最高位の軍事勲章ヴィルトゥティ・ミリタリが贈られました。また1920〜22年には、日本政府と日本赤十字社が、ロシア革命後の混乱のなかシベリアにいたポーランド人の孤児765人を救い出しています。孤児たちはウラジオストクから福井県の敦賀港へ運ばれました。 1939年9月にドイツとソ連がポーランドに攻め込み、第二次世界大戦が始まっても、日本はヨーロッパの戦争には加わらない立場をとりました。1940年にドイツ・イタリアと三国同盟を結んだあとも、東京のポーランド大使館が活動を続けるのを認めています。風向きが変わったのは1941年です。パワシュ=ルトコフスカ教授によると、日本はドイツの圧力を受けて、同年10月4日にポーランド大使の承認を取り消し、東京のポーランド大使館を閉じさせました。大使のタデウシュ・ロメルは、その後上海へ移っています。 そして12月8日、日本はアメリカ・イギリスとの戦争を始めます。その3日後の12月11日、ロンドンのポーランド亡命政府は、ヴワディスワフ・ラチキェヴィチ大統領と閣僚の署名で、日本との戦争状態を宣言しました。ベルギーやオランダの亡命政府、ド・ゴール将軍の自由フランスも、同じように日本に宣戦しています。ポーランドも、同盟国のイギリスやアメリカと足並みをそろえた形でした。 もう少し詳しく 「受け入れなかった」の中身は?宣戦布告を「受け取らない」とは、ずいぶん珍しい対応に聞こえます。ポーランドの通信社PAPが2024年に配信した記事で、日本の外交史を研究しているヤギェウォ大学(クラクフ)の歴史学者ヤクプ・ポリト教授は、日本の当局は「挑戦は受けない」と答え、東條首相はポーランドの決定を受け入れなかった、と説明しています。独立を求めて戦っているポーランドの宣戦は、イギリスとアメリカの当局に強いられたものだ、と見たからだといいます。 一方、元の投稿に引用された「ポーランドの挑戦は受けない。自由のために戦うポーランド人は、イギリスの圧力を受けて宣戦しただけだ」という一文は、英語版ウィキペディアの宣戦布告の一覧にも東條の言葉として載っていますが、「要出典」の印が付いたままです。この言い回しを記録した当時の文書は、確認できていません。ポリト教授の説明とも細部が違い、教授が「イギリスとアメリカ」と言っているのに対して、引用ではイギリスだけになっています。日本側がそうした趣旨で応じたという説明はあるものの、この一文そのものは、出典のはっきりしない言い回しとして読むのが無難です。 それでも、書類の上では戦争状態だった。日本が受け入れなかったとしても、両国の関係は1941年12月11日に正式に断たれた、とパワシュ=ルトコフスカ教授は書いています。戦後、国交を回復するために1957年2月8日にニューヨークで結ばれた協定は、第1条で、両国のあいだの戦争状態はこの協定が効力を生じる日に終わる、と定めました。協定は同年5月18日に発効し、外交関係が戻りました。このときの相手は、戦後に成立した社会主義のポーランド人民共和国です。書類の上では、ポーランドと日本の戦争状態は1957年まで続いていたことになります。 宣戦のあとも続いた情報協力。両国の情報機関の協力は、戦争の前から続いていました。パワシュ=ルトコフスカ教授によると、日本はドイツやバルト三国、北欧にある自国の公館にポーランドの連絡将校を置き、日本の外交郵便で報告を送れるようにしたり、偽造の身分証明書を用意したりしていました。その協力に関わった一人が、リトアニアのカウナスで日本の領事代理を務めた杉原千畝です。1940年の夏、ナチスから逃れようとするユダヤ人難民に、外務省の指示に反して日本を通過するためのビザを出し続けたことで知られますが、ソ連やドイツの動きを探るために、亡命ポーランド政府の情報将校と協力していたことも分かっています。番号を付けて記録されたビザだけでも2,139枚にのぼります。 この協力は、国交が途絶えたあとも切れませんでした。ストックホルムでは、日本の駐在武官だった小野寺信が、ポーランドの情報将校ミハウ・リビコフスキと情報を交換していました。名目の上では敵どうしになっても、ソ連とドイツの情報を分け合う関係は続いていたのです。 ポーランドが宣戦した相手は、日本だけ。ドイツは1939年9月1日に、ソ連は同じ月の17日に、どちらも宣戦布告をしないままポーランドへ攻め込んでいます。攻め込まれたポーランドの側から、あらためて宣戦布告をすることはありませんでした。その結果、ポーランドが第二次世界大戦で正式に宣戦布告した相手は、ポーランドを一度も攻撃していない日本だけになりました。ポリト教授は、20世紀を通じてもポーランドが正式に宣戦した相手は日本だけだったとして、これを「逆説的な状況」と呼んでいます。 海外の反応 1. 海外の名無しさん ついに覚悟を決めて宣戦布告したのに、「いえ、けっこうです。本気じゃないのは分かってますから」って丁寧に返される気持ち、想像するとなかなかつらい。 2. 海外の名無しさん(>>1への返信) 「宣戦布告する」 「いや、してないでしょ」 「え?」 「君とは戦いたくないんだ」 「じゃあ降伏しろ」 「でも戦争してないし」 「してるって! 今、宣戦布告したんだから」 「うん、でも本気じゃないよね」 3. 海外の名無しさん(>>2への返信) 「だいたい、そっちからこっちまで手が届かないでしょ。だからこうやって、ロシア越しに大声で叫び合ってるわけで」 4. 海外の名無しさん(>>2への返信) 「戦争してるって、口で言えば済むものじゃないでしょ」 「口で言ったんじゃない。“布告”したんだ」 ※注:アメリカのコメディドラマ『The Office』で、借金を抱えた支店長が「破産を宣言する!」と叫び、「言うだけで破産できるわけじゃない」と言われて「言ったんじゃない、宣言したんだ」と返す有名な場面のもじりです。 5. 海外の名無しさん 宣戦布告されたら「ノー」と言えばいい。相手には法的にどうしようもないんだから。今日いちばん使える外交テクニックを覚えた。 6. 海外の名無しさん(>>5への返信) クリストファー・ウォーケンが『セブン・サイコパス』でやってたやつだ。相手に「でも、こっちは銃を持ってるんだぞ」と言われても、「知ったことか」で押し通す場面。 7. 海外の名無しさん 宣戦布告したのは1941年で、しかもポーランドの国土をまったく押さえていない政府だった、ってことは知っておいてほしい。国はドイツとソ連に占領されていて、政府はロンドンにいたんだから。 8. 海外の名無しさん(>>7への返信) 「まったく」押さえていなかったわけでもないよ。占領下のポーランドには地下国家があって、地下の学校や裁判所を運営したり、武装レジスタンスを組織したりしていた。ロンドンの亡命政府とつながっていたんだ。 9. 海外の名無しさん そんな返し方をされて、ポーランドは侮辱されたと感じなかったのかな? 宣戦布告を「受け取らない」って、相手にされていないとも取れるよね。 10. 海外の名無しさん(>>9への返信) むしろ逆だと思う。戦前の日本とポーランドはかなり仲が良かったし、この宣戦も連合国の一員としての形だけのものだった。それを受け流したのは、ポーランドへの好意の表れでしょ。見下すどころか、ずいぶん礼を尽くした返事に聞こえる。 11. 海外の名無しさん(>>10への返信) このへんを調べていて読んだんだけど、1904年に出たポーランド語版の『武士道』(新渡戸稲造の本)には、「この本を、武士の国民だと私が考えるポーランド国民に捧げる」という献辞があるらしい。「大名や武士の意味は、ポーランドのカシュテランやスタロスタと比べると分かりやすい」なんて一文もあるとか。 ※ 新渡戸稲造は英語版『武士道』第10版の序文で、レンベルク(現在のウクライナのリヴィウ)の学術団体がポーランド語に訳したこと、そのポーランド語版がロシア政府に問題視されたことを書いています。ただ、このコメントで紹介されている献辞の原文と、それを誰が書いたのかは確認できませんでした。カシュテランやスタロスタは、昔のポーランドで城や地方を治めた役職の名前です。 12. 海外の名無しさん(>>11への返信) こんなに離れた2つの国を、いったい何が結びつけたんだろうね。2つの国の“あいだ”に何があるのか、ちょっと地図で確かめてみたいな。まさか、同じ厄介なお隣さんを抱えていたなんてことは……ないよね(棒読み) 13. 海外の名無しさん(>>12への返信) どっちも自分たちのことを、ロシアやイギリスみたいな当時の大国に押さえつけられまいとする、負けん気の強い挑戦者だと思ってたんじゃないかな。大国の言いなりにならずに、自分の力で立とうとしていた。似た者同士だったんだよ。 14. 海外の名無しさん 投稿のリンク先の記事にもっと詳しく書いてあるけど、戦時中のポーランドと日本は諜報でかなり協力してたらしい。日本はドイツとソ連のポーランド侵攻に激怒して、首相が責任を取って辞めたとか。 15. 海外の名無しさん(>>14への返信) 首相が辞めたのは、ポーランド侵攻のせいじゃないよ。その直前の1939年8月に、ドイツがソ連と不可侵条約を結んだのが原因。日本はドイツと手を組んでソ連に備える話を進めていたから、はしごを外された形になった。平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を出して総辞職してる。 16. 海外の名無しさん 日本が宣戦を受け流したのは、ソ連についての情報を交換する関係を手放したくなかったからだと思う。両国の情報機関は長年協力してきたんだし、共通の敵を前にして、うまくいっている協力関係をそう簡単に捨てるはずがない。 17. 海外の名無しさん(>>16への返信) カウナスで「命のビザ」を出した杉原千畝も、ポーランドの情報将校と組んでソ連やドイツの動きを探っていたっていうしね。ビザの話ばかり有名だけど、そっちの顔もあったんだ。 18. 海外の名無しさん 日本とドイツの同盟なんて、名ばかりだったんだよ。同じ相手と戦っていただけで、作戦をすり合わせることはほとんどなかった。独ソ不可侵条約もドイツが日本に相談なく結んだものだし、日本は日本で1941年にソ連と中立条約を結んで、戦争の終わり近くまでそのままにしていた。 19. 海外の名無しさん(>>18への返信) その中立条約を最後に破ったのは、ソ連のほうだけどね。1945年8月、まだ条約が有効なうちに満洲へ攻め込んできた。 20. 海外の名無しさん 当時のポーランドと日本は、かなり関係が良かったらしいね。ポーランドは、日本がつくった満洲国をいち早く承認した国のひとつだった、って読んだことがある。 21. 海外の名無しさん(>>20への返信) 満洲国は承認していないよ。ポーランドは1933年に国際連盟で日本を非難する側に回っているし、1938年に満洲国と覚書を交わしたときも「正式な承認ではない」とわざわざ断っている。ただ、日中戦争が始まったあと、1938年の国際連盟の理事会で中国を支持する決議が出たときには棄権しているから、日本との関係はかなり気にしていたんだろうね。 22. 海外の名無しさん 高校のとき、友達が彼女に別れ話を切り出したら、「いやだ、別れたくない」って言われたらしい。そんな返し方があるなんて知らなかったし、どうしていいか分からなくて、そのまま2週間付き合い続けてた。 23. 海外の名無しさん シヴィライゼーションをやってると、地球の反対側の小さな国がいきなり宣戦布告してくることがあるよね。で、60ターン後にボートが1隻だけやって来て、こっちの漁場を荒らして逃げていく。 24. 海外の名無しさん(>>23への返信) それなのに、周りの国から「好戦的な国」扱いされて評判が下がるのは、なぜか宣戦された側のこっちなんだよな。 25. 海外の名無しさん スイスがバイエルン・レーテ共和国の宣戦布告を相手にしなかった話を思い出した。第一次大戦のあと、1919年にミュンヘンにほんの短いあいだだけあった共産主義の国だ。機関車を貸してくれと頼んで断られたら、外務担当の人民委員がスイスに宣戦布告したんだって。スイスの返事は「酔っ払ってるのか、家に帰れ」だったとか。スイスと戦えるような軍隊なんて持っていなかったのにね。 ※ バイエルン・レーテ共和国の外務担当フランツ・リップが、機関車60両を貸してくれなかったとして、ヴュルテンベルクとスイスに宣戦したという話は、歴史書にも出てきます。一方、スイスが「酔っ払ってるのか」と返したという話は、出典が確認できませんでした。 まとめ 1941年12月11日、ロンドンのポーランド亡命政府は日本に宣戦布告しました。第二次世界大戦でポーランドが宣戦した相手は、ポーランドを一度も攻撃していない日本だけです。日本側はこれを受け入れなかったとされますが、元の投稿に引用された日本側の言葉は、出典のはっきりしない言い回しです。それでも両国の情報機関の協力は続き、書類の上での戦争状態は、1957年の国交回復の協定でようやく終わりました。 コメント欄では、「宣戦布告はノーと言えば断れる」という冗談が飛び交う一方で、新渡戸稲造の『武士道』や平沼内閣の「複雑怪奇」声明まで持ち出して、戦前の日本とポーランドがなぜ近かったのかを語り合う人も目立ちました。 元ソース: 第二次世界大戦中、ポーランドは日本に宣戦布告したが、日本はその宣戦布告を受け入れなかった The post 「第二次大戦でポーランドが宣戦布告した相手は、日本だけ」1941年の対日宣戦を、日本は受け入れなかったと伝わる…知ってた? 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