1918年3月、第一次世界大戦の西部戦線で、勢いよく進んでいたドイツ軍の歩兵が、フランス北部の町アルベールで急に動かなくなりました。町に入った兵士たちが、地下室で見つけたワインを飲んで、出てこなくなっていたのです。2025年の論文も、奪ったワインが1918年の攻勢を遅らせた一因だったと結論づけています。海外掲示板では、飢えた兵士への同情と、「話を盛りすぎるな」という指摘が並びました。 ※注:元スレッドのタイトルは「シャンパーニュの酒蔵で」としていますが、当時の目撃記録としてよく引かれるアルベールの町は、シャンパーニュ地方ではなく、その北西のソンム県にあります。ドイツ軍は1914年9月にもシャンパーニュ地方の都市ランスとエペルネを1週間ほど占領していますが、このとき引き返したのは、マルヌ会戦で英仏軍が反撃したためです。 今日の知ってた? 🍷 1918年3月28日、ドイツ軍の春季攻勢(最初の作戦はミヒャエル作戦)の進撃が、フランス北部の町アルベールで止まった。原因を調べに行った将校ルドルフ・ビンディングは、「町に入ると、通りにはワインが流れていた」と日記に書いている。 🚪 地下室から出てきたドイツ軍の中尉は、ビンディングに「血を流さずに部下をこの地下室から出すことはできない」と答えた。ビンディングは「進撃は止まり、何時間も動かせる見込みはなかった」と記した。 📖 約3週間後、ビンディングは日記に、アミアンまで届かなかったのは「ほぼ確実に」アルベールとモルイユでの略奪のせいだ、と書いた(現場にいた一将校の見方)。 🎖️ 攻勢を計画したドイツ軍の実質的な指導者エーリヒ・ルーデンドルフも、戦後の回想録で、部隊が奪った食料のまわりで足を止めたことは「成功の見込みを損ない、規律の乱れを示した」と認めている。 🏛️ 2025年に学術誌『First World War Studies』で発表された論文は、連合国側・中立の立場・ドイツ側の記録を突き合わせ、シャンパーニュのワイン蔵は実際にドイツ軍の進撃を遅らせる一因になったと結論。ただし、攻勢が失敗した主な原因・決定的な原因ではなかったかもしれないとしている。 背景:1918年春のドイツ軍の大攻勢とは 1918年のはじめ、ドイツは大きな賭けに出ようとしていました。ロシアは前年の革命で戦争から抜け、1918年3月にドイツと講和条約を結びます。ドイツは東部戦線の兵を西へ回せるようになりました。一方で、アメリカは前年4月に参戦していて、アメリカ兵が次々とフランスに到着していました。アメリカ軍が本格的にそろう前に西部戦線で決着をつけようと、ルーデンドルフが立てたのが「春季攻勢」です。ドイツでは「皇帝の戦い(カイザーシュラハト)」とも呼ばれます。 3月21日に始まった最初の作戦「ミヒャエル作戦」では、少人数で敵陣の弱いところをすり抜ける突撃部隊の戦法でイギリス軍の陣地を破り、最大で約65キロ前進しました。塹壕を挟んで何年もほとんど動かなかった西部戦線では、異例の前進です。しかし攻勢は4月5日に打ち切られ、鉄道の要衝アミアンの東、ヴィレル=ブルトンヌー付近で止まりました。 その後もドイツ軍は、4月にベルギー国境に近いリス川一帯、5月27日にエーヌ川一帯で攻勢を続け、マルヌ川の流域まで進みました。マルヌ川沿いのドルマンからシャトー=ティエリにかけては、シャンパーニュのブドウ畑が広がる地域です。7月15日にランスの両側で始めた攻勢が最後になり、18日にフランス軍が反撃に出ると(第二次マルヌ会戦)、流れは連合国側に移りました。ドイツは11月11日に休戦協定に署名します。 英語版ウィキペディアなどがまとめている、攻勢が勢いを失った主な理由は次のとおりです。歩兵は数日で疲れ切り、1916年のソンムの戦いで荒れ果てた土地を越えて、大砲や補給物資を前へ運ぶのが追いつきませんでした。突撃部隊は身軽に動くため、数日分の物資しか持っていませんでした。損害も大きく、そのあいだに連合国は予備の兵を送り込んで、破られた穴をふさいでいきました。 もう少し詳しく 飢えた軍隊が見た「敵の豊かさ」。ドイツはイギリス海軍の海上封鎖で、食料の輸入を断たれていました。1916年から17年にかけての冬はジャガイモが不作で、都市の住民はルタバガ(スウェーデンカブ)でしのぎ、「カブの冬」と呼ばれました。配給が1日1,000キロカロリーほどしかない時期もあります。前線の兵士の食事も粗末なもので、ドイツの指導部は兵士たちに「物が足りないのは敵も同じだ」と説明していました。ところが、ミヒャエル作戦でイギリス軍の後方に踏み込んだ兵士たちは、置き去りにされた補給所で、豊富な食料やチョコレート、シャンパンまで目にします。英語版ウィキペディアは、補給所の様子がドイツ兵を落胆させたこと、一部では略奪で進撃が鈍ったことを紹介しています。 アルベールの町で起きたこと。ルドルフ・ビンディング(1867〜1938年)はドイツの作家・詩人で、大戦では騎兵将校として出征し、その大半を西部戦線で参謀として過ごしました。その日記によると、1918年3月28日、味方の航空偵察ではアルベールからアミアンまでのあいだに敵はいないはずなのに、歩兵の進撃がぴたりと止まりました。車で町へ向かったビンディングが見たのは、牛を引いて町から戻ってくる兵、片腕にニワトリ、もう片方に便箋の箱を抱えた兵、ワインの瓶を脇に抱え、もう1本を開けて手に持った兵、客間の絹のカーテンを引きずる兵、シルクハットをかぶった兵、千鳥足でまともに歩けない兵でした。大半はある海兵師団の兵士で、町の通りにはワインが流れていたといいます。ビンディングは、何か月も飢えと渇きに耐えてきた兵士にとって、心を奪われるものは絵はがきでも絹のカーテンでもニワトリでもあったが、「たいていはワインだった」と書いています。 ビンディングの見立て。4月19日の日記で、ビンディングは、簡単に落ちたアルベールとモルイユにはワインがあまりに多く、通り抜けるはずだった師団が部屋や地下室で戦えない状態になっていた、と書きました。後に続く部隊の手配もなかったため、敵は態勢を立て直し、南からフランス軍の砲兵が駆けつける時間を与えてしまった、というのです。翌日、ワインで気が大きくなってアルベールから出た部隊は、鉄道の土手で数挺のイギリス軍の機関銃になぎ倒された、とも記しています。ただし、これは現場にいた一人の将校の見方で、攻勢全体が止まった理由をこれだけで説明できるわけではありません。 1914年のシャンパーニュ。シャンパーニュの生産者でつくる団体のサイトによると、開戦から1か月後の1914年9月3日にドイツ軍はランスに入り、翌4日にはエペルネに達しました。ドイツ軍は良い蔵からシャンパンを徴発しています。エペルネの市長だったシャンパンの生産者モーリス・ポル=ロジェは町に残り、銀行が閉まってしまったため、町の緊急紙幣を刷って急場をしのぎました。マルヌ会戦の反撃で、エペルネは9月11日に、ランスは13日に解放されます。その後のランスは前線のすぐそばで砲撃を受け続け、住民は地下の酒蔵に逃れ、学校や病院まで地下に移りました。1914年のブドウの収穫は、砲火の中で行われています。シャンパーニュに限らず、1914年の進撃でもドイツ兵がワインを見つけた記録は残っていて、ある予備軍団のパン職人は、9月4日に民家の地下室で500本のワインを見つけ、自分を含む4人で30本を抱えてパリへの進撃を続けた、と書き残しています。 歴史家はどう見ているか。敗戦後のドイツでは、負けた理由探しが盛んに行われました。その中に「奪った酒の蓄えが春季攻勢を失敗させた」という説があり、禁酒運動の活動家と、軍の有力者とのあいだで論争になりました。ポツダム大学とドイツ連邦軍の軍事史研究センターに所属する研究者ハムザ・コブスは、2025年に発表した論文「我々の攻勢はフランスのワイン蔵で立ち往生した!」で、この論争を検証しています。双方の主張を連合国側・中立の立場・ドイツ側の文書館の資料と突き合わせた結果、シャンパーニュのワイン蔵は実際に進撃を遅らせる一因になった、と結論づけました。ただし、ワインは攻勢失敗の主な原因・決定的な原因ではなかったかもしれず、もともとあった問題を深刻にしたのだ、としています。兵士たちが進んで足を止めて飲んだこと自体が、1918年のドイツ軍が抱えていた規律と補給の問題の表れだ、とも述べています。 海外の反応 1. 海外の名無しさん 何か月もひどい食事でしのいできたドイツ兵は、イギリス軍とフランス軍がどれだけいいものを食べていたかを知って、がく然としたそうだ。アメリカの軍事史家S・L・A・マーシャルの第一次大戦の本にそう書いてあった。 2. 海外の名無しさん(>>1への返信) Netflixの映画『西部戦線異状なし』(2022年)に、まさにそういう場面があったね。フランス軍の塹壕に突っ込んだドイツ兵が、戦闘の真っ最中なのに、置いてあった食べ物を夢中でかき込むんだ。考証には賛否のある映画だけど、あそこはすごく印象に残ってる。 3. 海外の名無しさん(>>2への返信) あそこは原作の小説にも近い場面がある。敵の退避壕から肉の缶詰をつかんで引き揚げてきて、仲間の一人はフランスの白パンを手に入れるんだけど、角に少し血が付いている。でもそこは切り落とせばいい、っていう書き方なんだよ。向こうの缶詰の肉は前線じゅうで有名で、それが目当てで奇襲をかけたこともある、とまで書いてある。それくらい飢えていた。 4. 海外の名無しさん 人類が作り出した地獄にいちばん近い場所で、何年も過ごしてきたんだ。ワインの1本や2本くらい、飲ませてやってもいいと思うよ。 5. 海外の名無しさん(>>4への返信) アメリカの歴史ポッドキャストの第一次大戦シリーズで、まさにこの話を聞いた。進撃が止まった理由を問いただしに来た上官に、現場の若い将校が「部下は家々の地下室で酔っ払っていて、どうやっても引き離せません」と答える。上官が「なら自分が行って片を付ける」と言うと、若い将校は「厳しい命令は出さないほうがいい」と止めた、という流れだった。何年も追い詰められてきた兵士たちは、もう限界だったんだろうね。 6. 海外の名無しさん(>>5への返信) その話の元は、ルドルフ・ビンディングという将校の日記だと思う。1918年3月28日、アルベールの町に入ると通りにはワインが流れていて、地下室から出てきた中尉が「血を流さずに部下をこの地下室から出すことはできない」と言った、と書いてある。ビンディング自身も、自分が行っても彼以上のことはできないと悟って、司令部に引き返しているんだ。 7. 海外の名無しさん 第一次大戦を研究している者として言うと、この遅れが1918年の攻勢の結果に与えた影響を、大きく見積もりすぎないほうがいい。疲れ切った部隊が補給所や後方の集積地に踏み込んで足を止めたことは実際にあったし、古典的な通史にも逸話として出てくる。でも攻勢が失敗した主な理由は、ドイツの最高司令部に明確な戦略目標がなかったことと、1914年にも苦しんだのと同じ補給の問題だ。前線までの距離が長く、予備の兵も荷を引く馬も足りず、鉄道の終点を離れると補給線が伸びきってしまう。 8. 海外の名無しさん(>>7への返信) スレタイの「歴史家が突き止めた」は、たぶん2025年に出たドイツの研究者の論文のことだと思う。要旨を読んだら、シャンパーニュのワイン蔵は確かに進撃を遅らせたが、攻勢が失敗した主な原因ではなかったかもしれない、もともとあった問題を悪化させたのだ、と書いてあった。あなたの言っていることとほぼ同じだね。 9. 海外の名無しさん 遅れたって、何がだよ。どうせ100メートル進んで、次の日にまた取り返されるだけだろ? 10. 海外の名無しさん(>>9への返信) 1918年の春はそこが違うんだよ。3月に始まった攻勢でドイツ軍は最大65キロくらい進んで、何年も動かなかった戦線が久しぶりに大きく動いた。だから数時間の足止めが重い。さっきのビンディングは、アミアンに届かなかったのはほぼ確実にアルベールとモルイユでの略奪のせいだ、とまで日記に書いている。あくまで現場にいた一人の見方だけどね。 11. 海外の名無しさん うちには、曾祖父が書いた第一次大戦の手記がある。曾祖父は塹壕掘りや道路の補修、鉄条網張りをする労働兵だった。最後の攻勢の直後、部隊は歩兵のすぐ後ろに送り込まれて、使えるものを片っ端から集める仕事をした。曾祖父が驚いたのは、フランス兵がゴムの長靴を履いていたことと、捨てられた車にゴムのタイヤが付いていたこと。ドイツではゴムが足りなくて、兵士は何年も水を通さない靴なんて見ていなかったんだ。砲撃の届く範囲なのに、フランス側には緑の草と、壊れていない農家まであった。歩兵たちが勝ったと喜んで食べている横で、曾祖父は「ドイツはずっと前に負けていたんだ」と悟ったそうだ。 12. 海外の名無しさん(>>11への返信) ドイツの上層部は兵士たちに「物が足りないのは敵も同じだ」と言い聞かせていたらしいから、なおさらだよね。敵の後方に入って、初めて本当の差が分かったわけだ。貴重な記録だと思う。 13. 海外の名無しさん 映画や本で知った範囲だけど、ドイツ軍の塹壕や兵舎はしっかりしていて、乾いていて安全で、前線にしては快適だった。そのかわり食事がひどい。イギリス軍とフランス軍は、食べ物もコーヒーも紅茶もそこそこだったけど、陣地は粗末だった。ドイツ軍の塹壕を奪ったイギリス兵が、コンクリートの退避壕を見て目を丸くした、という話も読んだことがある。 14. 海外の名無しさん(>>13への返信) 自分の国の土地を取り返さなきゃいけない側は、立派な塹壕を作っている場合じゃないからね。それに、居心地がよすぎると前に出る気がなくなるからと、塹壕を作り込ませなかった将軍もいたらしい。 15. 海外の名無しさん(>>14への返信) でも粗末な塹壕は砲撃に弱いし、寒さとぬかるみで病気も増える。死傷者が増えれば、いざ攻めるときの兵が足りなくなるし、士気も下がる。本末転倒だと思うよ。 16. 海外の名無しさん ドイツの食事は、この頃にはもう本当にひどかった。水っぽいスープに代用コーヒー。1916年から17年にかけての冬は「カブの冬」と呼ばれていて、街の人たちが食べていたのはスウェーデンから来たカブばかり。戦前なら家畜のえさだったものだ。1日1,000キロカロリーに届かない人も多かったらしい。 17. 海外の名無しさん(>>16への返信) 細かいけど、英語の「スウェーデンカブ」はスウェーデン産という意味じゃなくて、ルタバガという野菜の呼び名なんだ。輸入品じゃなくて、ドイツで作っていたもの。ちなみにスコットランドでは、このカブは国民食ハギスの付け合わせとして欠かせない。それがドイツでは「最後の手段の食べ物」扱いなのが、ちょっと面白い。 18. 海外の名無しさん 食べ物の話で思い出したけど、のちに西ドイツの初代首相になるコンラート・アデナウアーは、大戦中にケルン市で市民の食料の確保を任されていて、大豆の粉を使ったソーセージを考え出したんだ。ドイツの特許庁には認めてもらえなかったのに、イギリスでは特許が取れたというオチまである。 19. 海外の名無しさん 前線の兵士はまだましなほうだった。ドイツの民間人は、封鎖が解ける1919年までに60万人、たぶん90万人近くが飢えで亡くなっている。 20. 海外の名無しさん(>>19への返信) その数字には幅があるよ。1918年の暮れにドイツの保健当局が出した76万人という数字は、多すぎると批判されているし、1928年の研究では42万人、30万人ほどと見積もる研究者もいる。90万人というのは聞いたことがない。どの数字でも、とんでもない数なのは変わらないけど。 21. 海外の名無しさん フランスの人たちは上等なワインを隠して、安物を「これがうちの最高級品です」と言って差し出した、なんて話も聞いたことがある。ドイツ兵には違いなんて分からないと踏んでいたんだとか。 22. 海外の名無しさん(>>21への返信) フランス人「まぬけなドイツ兵め、本物の上物は奥に隠してあるのに!」 ドイツ兵(何年ぶりかのまともな食事に、泣きながらワインを飲んでいる) フランス人「ドイツ人はちょろいな!」 何年も塹壕で暮らした人に、銘柄なんて関係ないって。 23. 海外の名無しさん これはフランス軍の作戦だよ。満を持して、ドン・ペリニヨン将軍を投入したんだ。 24. 海外の名無しさん(>>23への返信) ドン・ペリニヨンは将軍じゃなくて、17世紀から18世紀のはじめにかけて、シャンパーニュの修道院でワインづくりを任されていた修道士な。まあ、この戦いに限っては、どんな将軍よりも働いたのかもしれないけど。 25. 海外の名無しさん 似た話は第二次大戦にもある。1944年、フィンランドとドイツが戦ったラップランド戦争のトルニオの戦いで、フィンランド軍の連隊が「リトル・ベルリン」と呼ばれていたドイツ軍の補給所を奪ったら、大量の酒が出てきた。第2大隊と第1大隊の大半で規律が消えて、あとから来た別の連隊の大隊まで間違って同じ場所に案内されて同じことになり、まる1日を失ったそうだ。 まとめ 1918年春、飢えていたドイツ軍の兵士たちは、奪った町のワインと食料に足を止め、アルベールでは進撃が何時間も止まりました。2025年の論文は、ワイン蔵が遅れの一因だったと認めつつ、攻勢失敗の主な原因ではなかったかもしれないとします。コメント欄では兵士への同情に加えて、勝敗を分けたのは補給の差だという声が目立ち、敵の後方で初めて自国の負けを悟った、という曾祖父の手記を紹介する書き込みもありました。 元ソース: 第一次世界大戦中、ドイツ軍はシャンパーニュの酒蔵で奪ったワインを飲むために足を止め、進撃が遅れた。歴史家によると、1918年のドイツ軍の春季攻勢が遅れた一因はワインだった The post 「奪ったワインを飲むために兵士が足を止めた」第一次大戦最後の大攻勢、ドイツ軍の進撃を鈍らせたフランスの酒蔵の話は本当だった…? 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