
ヒクソン・グレイシー自伝ピーター・マグワイア亜紀書房2022-03-25ヒクソン・グレイシー 無敗の法則ヒクソン・グレイシーダイヤモンド社2017-10-131: 以下、名無しで筋肉速報がお送りします 2020/10/31(土) 10:51:33.73 ID:CAP_USER9 ヒクソン・グレイシーから黒帯を授かった日本人が一人だけいる。 全日本柔術連盟の理事長で、『アクシス柔術アカデミー』の代表である渡辺孝真だ。 ブラジルで育った彼は、日本でヒクソンが試合を行う際にはセコンドにつき、試合後のインタビューでは幾度も通訳も務めている。ヒクソンとの親交は深い。そんな彼に尋ねたことがある。 ヒクソンの試合の中で、もっとも緊張感があったのは誰との闘いか、と。 渡辺は間を置かずに、こう答えた。 「高田(延彦)選手との2戦目ですね。セコンドについていて、あの試合が一番ドキドキしました」 試合の4カ月前に腰に激痛が 1998年10月11日、東京ドームで開催された『PRIDE.4』。この大会のメインエベントでヒクソンと高田の再戦は行われた。1ラウンド9分30秒、腕ひしぎ十字固め。ヒクソンは1年前の初対決時と同じ技で高田を返り討ちにする。完勝だった。 だが、リングに上がる過程でヒクソンは大苦戦を強いられていたのだ。 決戦の4カ月前、6月上旬のことだった。 道場で指導をしていた際に突然、腰に痛みを感じた。椎間板ヘルニアに見舞われたのである。腰の痛みは激しく、動くこともままならない日々が続いた。 当時、私はそのことに気づいていなかった。 詳しい話を聞いたのは、ヒクソンが現役を引退した後のことである。 ヒクソンは言った。 「プロフェッショナルのファイターは、リングに上がる時にはベストコンディションでなければならない。これは当然のことだと私は思っている。調整が上手くできないというのは恥ずかしいことだし、それは弱みにもなるから人に知られたくない。だから、ずっと口にしなかった。 でも、私はすでに現役を引退している。もう話してもいいだろう。 あれほどまでの痛みを腰に感じたことは、それまで一度もなかったから不安な気持ちになったよ。試合のキャンセルも考えたんだ。でも私はすでに(契約書に)サインをし終えていたから、やはりリングに上がらぬわけにはいかなかった。 それでスケジュールを変更して、闘いの3カ月前になってもトレーニングを開始せず腰を治すことに努めたんだ」 腰の状態は、試合の2カ月前になっても改善されなかった。 ヒクソンは焦った。「何とかしなければ」との思いで8月に故郷リオ・デ・ジャネイロに戻る。勝手知ったる地で、できる限りの治療を受けるためだった。カイロプラクティックをはじめ、知人から「良い治療法がある」と聞かされれば、そこに足を運んだ。 「どの治療法が効いたのか、実際のところ私にはわからない。さまざまなことを試したからね。でも、できる限りのことをやった甲斐があって腰の痛みが徐々に治まったんだ。9月に入った頃には、ほぼ普通の状態に戻ったよ」 思うようなトレーニングは積めていない。それでも腰に痛みは感じなくなった。 (これなら何とかなる) そう思い、試合の1カ月前に成田行きの飛行機に乗った。 10/30(金) 8:12 【プロレスが死んだ日】 1998 10 11 ヒクソン・グレイシー vs 高田延彦 高田 入場曲…