画家ゴッホは28歳の夏、7歳年上のいとこに愛を打ち明け、「決して、いいえ、絶対に」と三重に断られました。それでも諦めきれず、数か月後には彼女の両親の家まで訪ねていきます。この顛末を書き残したのは、ほかでもない本人。弟テオに宛てた手紙に、断られた言葉も、訪ねた晩の食卓の様子も残っています。海外掲示板では、オランダ語の響きを面白がる声と、「気味の悪い男扱いは違う」とかばう声が入り交じっていました。 ※注:この記事の事実部分は、ゴッホ美術館(アムステルダム)とオランダのホイヘンス研究所(Huygens ING)が公開している書簡集「Vincent van Gogh – The Letters」に収められた本人の手紙とその編者注、ゴッホ美術館の解説にもとづいています。手紙の引用は、同書簡集の英訳とオランダ語原文から訳しました。出来事はどれもフィンセントの側から書かれたもので、ケー本人の言い分を伝える資料ではありません。 今日の知ってた? 💌 1881年の夏、画家を志して1年ほどのフィンセント・ファン・ゴッホ(当時28歳)は、オランダ南部エッテンの両親の家に滞在していた7歳年上のいとこ、ケー・フォスに愛を打ち明け、結婚を申し込んだ。ケーは夫を亡くしていて、幼い息子がいた。 🙅 返事は「nooit, neen, nimmer」。オランダ語で「決して、いいえ、絶対に」と、断りの言葉を3つ重ねた言い方で、英訳では「no, nay, never」。フィンセント本人が同じ年の11月、弟テオへの手紙に書いている。 🚪 それでも諦めず、11月下旬にはアムステルダムにあるケーの両親(フィンセントのおじ夫妻)の家を訪ねた。ケーは彼が来たと聞くなり家を出てしまい、3日間の滞在で一度も会えなかった。 🕯️ 半年後の手紙には、このとき「きみのしつこさには胸が悪くなる」と言われたこと、ランプの炎に指を入れて「この手を炎に入れていられる間だけ、彼女に会わせてください」と迫ったことも書かれている。 ✉️ どれも後年の伝記が付け足した話ではなく、出どころはフィンセント自身の手紙。 背景:28歳のフィンセントと、いとこのケー 1881年の春、フィンセントはオランダ南部ブラバント地方の村エッテンにある両親の家に戻ってきました。父テオドルスは牧師です。フィンセントはそれまで、書店で働き、神学部を目指して受験勉強をし、ベルギーの炭鉱地帯で伝道師を務めるなど、進む道がなかなか定まりませんでした。画家になると決めたのは前の年の1880年。まだ絵で稼ぐことはできず、パリで画商として働く4歳下の弟テオの仕送りが頼りでした。ゴッホ美術館の解説によると、両親は長男が画家の道を選んだことにひどく落胆していたといいます。 その夏、エッテンの家に長く滞在したのが、いとこのケー・フォス(本名コルネリア・フォス=ストリッケル、Cornelia “Kee” Vos-Stricker)でした。1846年生まれで、1853年生まれのフィンセントより7歳年上。母親どうしが姉妹という間柄で、ケーの父はアムステルダムの牧師ヨハネス・ストリッケルです。ケーは1878年10月に、同じく牧師だった夫クリストッフェル・フォスを亡くしていました。1873年生まれの息子ヤンがいて、書簡集の人名索引によれば、夫に先立つ1877年には、もうひとりの息子を1歳ほどで亡くしています。 ストリッケル牧師は、フィンセントにとって縁の遠い親戚ではありません。数年前、神学部を目指してアムステルダムで1年ほど受験勉強をしていたころ、フィンセントはこのおじの家に顔を出し、教会でその説教も聞いていました。ゴッホ美術館の解説は、このとき牧師のおじが受験勉強を手伝い、やがて進学を諦めるよう勧めた、と書いています。 フィンセントの手紙によると、その夏、彼とケーは何日も何週間も、連れ立って歩き、話をして過ごしました。書簡集の編者は、彼はおそらく「自分が思うのと同じくらい、相手も自分を好いてくれている」と考えて結婚を申し込んだのだろう、と注を付けています。 もう少し詳しく 告白の言葉と、返ってきた3語。フィンセントがテオに初めてこの件を打ち明けたのは、1881年11月3日付の手紙です。それによると、彼が気持ちを伝えたとき、ケーは「自分にとって過去と未来はひとつのもので、だからあなたの気持ちに応えることは決してできない」と答えました。フィンセントは別の手紙で、彼女の思いはまだ過去にあり、深い喪の中にいる、と書いています。4日後の手紙には、告白の言葉そのものが出てきます。「ケー、ぼくにはきみがいちばん近しい人で、ぼくもきみにとっていちばん近しい人であるように思える。自分を愛するようにきみを愛している」。そして、「そのとき彼女は言った。nooit, neen, nimmer、と」。直訳すれば「決して、いいえ、絶対に」。英訳の「no, nay, never」と同じく、3語とも N の音で始まります。 「氷のかたまり」を胸に押し当てる。フィンセントは引き下がりませんでした。手紙には、あの返事を受け入れて身を引くか、まだ終わったとは考えずに勇気を出すかで迷い、後のほうを選んだ、とあります。この3語は以後、彼の手紙に何度も出てくる決まり文句になりました。「あの『nooit, neen, nimmer』は、溶かすために胸に押し当てている氷のかたまりだと思っている」とまで書いています。ケーにも、その父のストリッケル牧師にも手紙を送り続けましたが、ケーからの返事は一言も来なかったといいます。 周りの大人たちの反応。両親もおじ夫妻も、この話はもう終わったものと見ていました。フィンセントの手紙によれば、両親は彼の恋を「時機をわきまえず、慎みに欠ける」ものと考え、ケーやおじに手紙を書くのをやめるよう求めました。11月18日付の手紙には、父がその朝、おまえを呪って家から追い出すと口にした、とあります。一方でフィンセントは、年長者たちが反対する本当の理由は稼ぎだと見ていました。「自分が少なくとも年に1000ギルダー稼ぐ人間になれば、あの人たちの考えは変わる」「自分が金持ちだったら、まったく違うことを言うはずだ」というのが彼の読みです。ギルダーは当時のオランダの通貨で、同じころ彼がハーグで泊まっていた下宿は、朝食つきで月30ギルダーでした。親戚の中でただひとり、セントおじだけは、彼がこの3語を冗談にして受け流す様子を面白がり、懸命に働いて成功すれば見込みはある、とこっそり言ってくれたそうです。 アムステルダムの3日間。11月下旬、フィンセントはアムステルダムへ向かいます。旅費が高いので、おじに書留で送った手紙に効き目がなかったときの最後の手段、と考えていた旅でした。1か月ほどあとの手紙に、その晩のことが細かく書かれています。運河沿いにあるおじの家を探しあてて呼び鈴を鳴らすと、一家は食事の最中。通された食卓には全員の前に皿があるのに、ケーの姿だけがなく、余った皿も1枚もありませんでした。「彼女がいないと思わせるために、皿を片づけたのだ」と彼は書いています。ケーはどこかと重ねて尋ねると、おじは答えました。「ケーは、きみが来たと聞くなり家を出ていったよ」。 おじは、ちょうど送るところだったという手紙を読み上げました。文通をやめ、この件を忘れるよう努めてほしい、という内容です。言い合いになって双方が腹を立てましたが、夜の終わりにおじ夫妻は「うちに泊まっていってもいい」と言い、彼が断ると、寒く霧の深い、ぬかるんだ道を一緒に歩いて、安くて良い下宿まで送ってくれました。フィンセントは、あれは人間味のあるふるまいだと思い、少し気持ちが落ち着いた、と書いています。その後も2日とどまっておじと話しましたが、ケーはそのたびに姿を消し、結局一度も会えませんでした。 「胸が悪くなる」とランプの炎。元スレッドのタイトルは、彼女の両親が彼のしつこさを「胸が悪くなる」と言った、としています。この言葉は、訪問の1か月後に書かれた先ほどの手紙には出てきません。出どころは、さらに5か月ほどあと、1882年5月にハーグからテオに宛てた手紙です。そこには、アムステルダムでこう言われたとあります。「きみが家にいるなら、ケーは家を出ていく。きみの『彼女だけ、ほかの誰でもない』に対する彼女の答えは『あの人だけは絶対にない』だ。きみのしつこさには胸が悪くなる」。原文のオランダ語は walgelijk。古い英訳は disgusting、現在の書簡集の英訳は sickening(吐き気がする)をあてています。誰の口から出た言葉なのかは、手紙に書かれていません。ただ、この訪問で彼が向き合っていたのは、ケーの両親であるおじ夫妻でした。 同じ手紙は、こう続きます。「ぼくはランプの炎に指を入れて言った。この手を炎に入れていられる間だけ、彼女に会わせてください」。そして、「でも彼らは、たしかランプを吹き消して、会わせない、と言った」。よく知られた逸話ですが、本人が半年後に自分で書いた話です。ただし、訪問の1か月後に書かれた詳しいほうの手紙に、この場面は出てきません。本人も「たしか」と添えています。どのくらいの間そうしていたのかも書かれておらず、後日ハーグの知人が自分の手に目をやっていたかもしれないのも無理はない、と付け加えているだけです。 手紙によれば、彼はそのあとケーの弟ヤンとも話し、効き目があるのは金だけだ、という意味のことを言われました。アムステルダムを発つときは「奴隷市場にいたような気分だった」。そして、すぐにではないもののほどなく、あの恋が死んでいくのを感じた、と書いています。 その後。1881年のクリスマス、フィンセントは父と激しく口論して、その日のうちにエッテンの家を出ました。きっかけは教会に行かなかったことでしたが、本人は手紙に「この夏のケーとのことも含めて、じつはもっといろいろある」と書いています。移り住んだハーグでは、いとこの夫にあたる画家アントン・モーヴに絵を習いました。ゴッホ美術館によると、翌1882年の初めにはシーン(クラシーナ・ホールニク)という女性と出会い、関係は1年半ほど続いたといいます。 海外の反応 1. 海外の名無しさん 2人とも英語を話す人じゃないはずだから、気になって元の資料まで見にいった。彼女の返事はオランダ語で、「nooit, neen, nimmer」だったそうだ。 2. 海外の名無しさん(>>1への返信) オランダ語はまったく分からないのに、英語訳よりそっちのほうがずっとおかしい。なんでだろう、語感かな。 3. 海外の名無しさん(>>1への返信) オランダ語が分かる人間が読んでも、やっぱりおかしいよ。英語でいえば、シェイクスピア劇みたいな古風な言い回しで振られてる感じ。 4. 海外の名無しさん(>>1への返信) どうせこの3語も、自分が想像してる読み方とは全然違うんだろうな。本人の名字からしてそうだったし。 ※ 英語圏、とくにアメリカでは名字を「ヴァン・ゴー」のように読むことが多く、オランダ語の発音とは大きく違う。 5. 海外の名無しさん 英語訳が「No, nay, never」になったせいで、読んだ瞬間から頭の中で酒場の歌が流れっぱなしだよ。ノー、ネイ、ネヴァー(パン、パン、パン、パン)、ノー、ネイ、ネヴァー、ノー・モア! ※ 英語圏で広く歌われている民謡『ワイルド・ローバー(The Wild Rover)』のこと。サビが「No, nay, never」で始まり、合いの手に手拍子を入れるのがお約束になっている。 6. 海外の名無しさん(>>5への返信) 認めたくないけど、タイトルを読んで最初に浮かんだのがそれだった。失恋の話なのに、もう陽気な合唱にしか聞こえない。 7. 海外の名無しさん ちょっと意外だったのは、彼女のほうが7歳年上だったこと。こういう昔の話だと、相手はずっと年下なんだろうと思い込んでた。この時代にしては珍しい気がする。 8. 海外の名無しさん(>>7への返信) 流し読みしてたら「7歳」だけが目に飛びこんできて、一瞬本気であせった。7歳「年上」ね。よかった。 9. 海外の名無しさん(>>7への返信) 「珍しい」は言いすぎじゃないかな。権力のある男は政略結婚で若い相手を選びがちだったけど、ふつうの男が年上の女性と結婚するのは、昔からいくらでもあったことだと思うよ。 10. 海外の名無しさん このタイトルの書き方だと、つきまとう気味の悪い男みたいに読めるけど、ちょっと違うと思う。相手は7歳年上のいとこで、起きたことの大半は手紙と、親族への直談判。同じオランダ国内にいて、アムステルダムまで会いにいったけど会ってもらえず、周りにたしなめられて引き下がった。夏に出会った人への片思いを、しばらく引きずってただけだよ。そのあとは別の女性と出会って、ちゃんと次に進んでるし。 11. 海外の名無しさん(>>10への返信) とはいえ、はっきり断られた相手の実家まで押しかけるのは、今の感覚だと完全にアウトだよ。当時だって、向こうの家族は本気で困ってたわけだし。 12. 海外の名無しさん かばうわけじゃないけど、この時代、いとこ同士の結婚ってわりと普通だったんじゃなかったっけ。親たちが反対したのも、いとこだからというより、彼に稼ぎがなかったことが大きかったように見える。 13. 海外の名無しさん(>>12への返信) 夫を亡くして子どもを抱えた娘の親としては、そこを気にするのは当然だよ。相手は画家になると言いだして1年、収入のない28歳なんだから。 14. 海外の名無しさん よく「ダメ元で言ってみなよ。最悪でも断られるだけなんだから」って言うけどさ……。 15. 海外の名無しさん(>>14への返信) 最悪の場合、断りの言葉を3つ重ねて言われ、訪ねていけば家を出ていかれ、食卓の皿まで片づけられる。 16. 海外の名無しさん 断りの返事を「氷のかたまりだと思って、溶けるまで胸に押し当てる」って書いてるの、文章としては見事なんだけど、言われた側からすると怖いよ。 17. 海外の名無しさん 「胸が悪くなる」と言われた場所が、自分のおじさんとおばさんの家なんだよな。そのあとの親戚の集まり、どんな顔をして出ればいいんだ。 18. 海外の名無しさん 食卓にケーの皿だけ無いのに気づいて、「いないと思わせるために片づけたな」と見抜くくだり、観察が妙に細かくて笑ってしまった。さすが画家の目。 19. 海外の名無しさん(>>18への返信) そのあと言い合いになったのに、おじ夫婦が寒い夜道を歩いて安い下宿まで送ってくれてるのがいい。困った甥っ子でも、放り出しはしないんだ。 20. 海外の名無しさん ランプの火に手をかざして「会わせてくれ」と迫ったっていうのも、このいとこのときの話だっけ? 21. 海外の名無しさん(>>20への返信) そう、このアムステルダム訪問のときの話。本人が半年後に、弟への手紙に書いてる。ただ、訪ねた1か月後のくわしい手紙には出てこないし、「たしか向こうがランプを吹き消した」と、書き方もどこかあいまいなんだよね。 22. 海外の名無しさん ゴッホの逸話といえば耳の話しか知らなかった。その7年前に、もうこんなことがあったのか。順番でいえば、こっちが先なんだな。 ※ ゴッホが自分の耳を切ったのは1888年12月、南フランスのアルルでのこと。 23. 海外の名無しさん 弟テオに宛てた手紙をまとめて読んだことがある。たしかに変わった人だし、恋愛はからきしだったと思う。でも、絵に向ける熱量と、自分が打ちこむものへのまっすぐさは本物で、そこは素直に尊敬してる。 24. 海外の名無しさん 弟のテオも、のちに妻になるヨー・ボンゲルへの最初の求婚は断られてるんだよね。相手にしてみれば、ろくに知らない人からの突然の申し込みだったから。それでも結局2人は結婚して、兄弟が亡くなったあと、ヨーが手紙を出版したことでゴッホの名前は広く知られるようになった。この人はもっと評価されていい。 ※ テオがヨー(ヨハンナ・ボンゲル)に求婚して断られたのは1887年7月(書簡集の編者注による)。2人は1889年4月に結婚し、フィンセントの手紙は1914年にヨーの編集で出版された。 25. 海外の名無しさん(>>24への返信) アムステルダムのゴッホ美術館は、彼女の功績をちゃんと紹介してるよ。あの手紙が残っていなかったら、今日のこの話だって誰も知らなかったわけだしね。 まとめ ゴッホは28歳の夏、7歳年上のいとこケー・フォスに求婚して「決して、いいえ、絶対に」と断られ、数か月後に彼女の両親の家を訪ねても、会うことはできませんでした。この話は、本人が弟テオに書いた手紙に残っています。コメント欄はオランダ語の3語の響きや断られ方のきつさを面白がりつつ、「気味の悪い男扱いは違う」「いや、今ならアウトだ」と見方が分かれ、稼ぎのない28歳を警戒した親たちに理解を示す声もありました。伝わっているのはフィンセントの側の言葉だけ、という点は頭に置いておきたいところです。 参考:書簡179(1881年11月3日)、書簡180(同7日)、書簡193(同12月23日ごろ)、書簡228(1882年5月16日ごろ)(いずれも Vincent van Gogh – The Letters)、ゴッホ美術館「画家としての第一歩 1881-1883」 元ソース: フィンセント・ファン・ゴッホは、いとこのコルネリア・“ケー”・フォス=ストリッケルに愛を告白して結婚を申し込み、「決して、いいえ、絶対に」と返された。数か月後、彼は彼女に会うためアムステルダムへ向かったが、彼女は会おうとしなかった。彼女の両親は彼のしつこさを「胸が悪くなる」と言った The post 「決して、いいえ、絶対に」ゴッホが7歳年上のいとこに求婚して返された3語のお断り…それでも諦めなかった28歳が弟に書いた手紙 appeared first on みんな知ってた?【海外の反応】.…