1 名前:少考さん ★:2026/09/12(土) 09:54:57.29 ID:Gw8huMoG9.net スパイとして日本軍に召集された北方少数民族ウイルタの数奇な運命、「君たちの死をムダにはしない」石碑に刻まれた言葉の真実 「戦死」扱いされず「病死」に、戦後はシベリアに抑留され… | NEWSjp -共同通信 Published 2026/09/12 09:30:00 Updated 2026/09/07 12:33:40 ダーヒンニェニ・ゲンダーヌさん(北海道立北方民族博物館提供) 北海道網走市の山の中腹に、ひっそりと建つ石碑がある。名前は「静眠の碑」。 石碑にはこう刻まれている。 〈突如召集令状をうけ サハリンの旧国境で そして戦後 戦犯者の汚名をきせられ シベリアで非業の死をとげたウイルタ ニブヒの若者たち その数30名にのぼる〉 ウイルタ、ニブヒとは、樺太(現ロシア・サハリン)で暮らす少数民族だ。第2次大戦中、日本軍は統治下の南樺太で北方少数民族の人々を多数召集した。 ウイルタの故ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(日本名・北川源太郎)さんもその1人だ。石碑は、抑留を経験し、その後網走で生涯を終えたゲンダーヌさんと支援者の会が建てた。 石碑の台座には、こうも刻まれている。〈君たちの死をムダにはしない〉 戦争に翻弄されながら、ゲンダーヌさんは樺太と網走でどう生きたのか。その数奇な人生をたどった。(共同通信=羽場育歩) ▽日本領だった樺太に生まれて ゲンダーヌさんは、樺太でウイルタとして生まれた。生年月日は不明だが、「大正末か昭和の初めときかされている」(田中了/D・ゲンダーヌ著『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』より) 当時、樺太アイヌ、ニブヒ、ヤクートなど複数の民族が暮らしていた樺太。日露戦争後の1905年のポーツマス条約で南北に分割され、日本は北緯50度以南を領有、北部はロシア(後に旧ソ連)が領有していた。 遊牧と狩猟で生活を営んでいたウイルタだが、次第に樺太の敷香(現ポロナイスク)に集住させられるように。ゲンダーヌさんは少数民族を集めた教育所で、日本語を用いて天皇崇拝の考え方を教え込まれる皇民化教育を受け、日本名「北川源太郎」を付けられた。 1940年代前半、陸軍の特務機関は、ゲンダーヌさんら少数民族の若者を召集した。国境を越えて自由に動ける彼らにソ連の動向を偵察させる極秘任務のためだ。 ▽利用された少数民族 〈射撃の技術は、けだし神技に近く、飛ぶ鳩の右眼を、大木の上に動くリスの左眼をと命ずれば、必ず確実に右眼左眼に命中させはずれることがない〉 南樺太に設置された陸軍の北部の特務機関長で、ゲンダーヌさんの上官だった故扇貞雄さんは、少数民族について手記『ツンドラの鬼』にこう書き残した。手記には、並外れた射撃技術に感銘する言葉が並ぶ。 扇さんの手記によると、直接指導をしていた少数民族は300人以上。「特務機関召集令状」で青年を集め、さまざまな訓練をしたと綴っている。 特務機関は、国境付近にたばこや菓子、裸の写真を置いてソ連側に南樺太の豊かさと自由を宣伝したり、ビラや物資を風船で飛ばしたりする作戦を実施した。 手記には、少数民族同士が国境付近で苛烈な争いを繰り返した、ともつづられる。日本側、ソ連側それぞれが少数民族を利用していたのだ。 〈国境地帯の道案内をつとめていた同族ワシューカの戦死の報を耳にしたのはその頃であった。頭部貫通銃創で即死したときくが、その報告は「病死」であった。原住民の死は「戦死」扱いはされず、すべて「病死」とされた〉(田中了/D・ゲンダーヌ著『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』より) 国境付近などで命を落としたとされる犠牲者の正確な数は今も分かっていない。 ▽「戦犯」…しかし軍人恩給はなく 太平洋戦争後、ゲンダーヌさんら召集された少数民族を待ち受けたのは「戦犯者」の肩書だった。 終戦間際、ソ連は南樺太に侵攻した。日本は敗れ、召集された北方少数民族はシベリアなどに抑留された。 ゲンダーヌさんもスパイほう助罪で9年半の抑留生活を送り、過酷な環境で友人を亡くした。耐え抜いたゲンダーヌさんは、家族を追って日本に渡った。 ウイルタは戦時中、日本戸籍を持たず、生活は戸籍を作るところから始まった。就職の壁は厚く、日雇いの肉体労働などで生計を立てた。 転機が訪れたのが、1975年。(略) ※全文はソースで 引用元:…