1995年に公開された『セブン』は、あの結末があったからこそ三十年語り継がれてきた作品だ。ところが企画の途中で、その結末は一度きれいに削られている。会社側の要求で書き直され、脚本家自身が「自分の作品を台無しにしている」と感じながら判を押した。それでも公開された映画に元の結末が残っているのは、ある事務的な手違いが起きたからだと語られている。 今日の知ってた? 🎬 1995年公開の映画『セブン』は、企画の初期段階で製作会社から「結末が暗すぎる」と変更を求められ、脚本家アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーは要求どおりの穏当な結末を書き直した。ところが監督就任を打診されたデヴィッド・フィンチャーのもとには、手違いで元の結末が残ったままの稿が届いたという。フィンチャーは「この稿以外では撮らない」と譲らず、世に出たのは書き直される前の結末だった。ウォーカーが要求に応じて書いた稿は、最終的に13本にのぼる。 背景:『セブン』は最初、別の監督の企画だった 1990年代前半の時点で、この脚本はまだフィンチャーのものではなかった。企画を進めていたのはイタリアの製作会社ペンタ・フィルムで、監督として迎えられたのはジェレマイア・S・チェチックという人物である。コメディ映画『ナショナル・ランプーン/クリスマス・バケーション』(原題 National Lampoon’s Christmas Vacation、1989年)のヒットで知られ、当時はより硬派な題材を探していたと伝えられる。 製作会社と監督は、脚本にいくつもの変更を要求した。その中でとくに大きかったのが、あの暗い結末をまるごと外すことだった。ウォーカーに提示されたのは、要求に従うか、降ろされるか、企画そのものが消えるか、という三択に近い状況である。彼は要求をのみ、より一般向けの結末を書いた。最終的に書き上げた稿は13本。2017年のインタビューでウォーカーは、当時「自分の脚本を台無しにしている」という自覚があり、あの時点で降りるべきだったと振り返っている。 ※ ここから先は『セブン』の結末そのものに触れます。まだ観ていない方は、ここでいったん記事を閉じて、先に映画を観てから戻ってきてほしい。この作品は、ほとんど結末で出来ている。 もう少し詳しく 会社側が書かせた結末は、教会での決着だった。ウォーカーが書き直した稿では、二人の刑事は焼け落ちた(あるいは燃えさかる)教会でジョン・ドウと対峙する。ドウが体現する罪は「嫉妬」で、彼はミルズを殺し、そのドウをサマセットが撃つ。身重のトレイシーは街を去っていく——という筋書きだった。犯人が倒され、生き残った者が去る。物語の型としては、きわめて真っ当な幕切れである。 実際に公開された結末は、これとは組み立てそのものが違う。荒野に呼び出された刑事たちのもとへ一台の車が来て、箱が届けられる。中身を知ったサマセットが必死に止めても、ミルズは引き金を引いてしまう。ドウは「倒される」のではなく、自分の設計図の最後の一枚を刑事本人に埋めさせて死ぬ。差し替え案との違いは、暗いか明るいかではない。誰が誰を追い詰めていたのかという物語の構造そのものが、まるごと入れ替わっている。 フィンチャーの手元に届いたのは、書き直される前の稿だったという。監督の打診を受けた彼が読んだのは、まだあの結末が生きている版で、それは手違いだった——という話が繰り返し語られている。フィンチャーはこの稿以外で撮る気はないと突っぱねた。もっとも、細部は語り手によって少しずつ違い、どの段階の稿がどう紛れ込んだのかまで裏づけが取れているわけではない。ただ、「届いた紙が違っていた」ことが分岐点になった、という筋だけは一貫している。 守り手はフィンチャーひとりではなかった。ブラッド・ピットは後年、契約書に「この結末のまま撮ること」を求める条項を入れていたと語っている。撮影が始まってからも監督の頭越しに変更を通そうとする動きがあり、そこでこの条項が効いたのだという。また、当時の製作責任者が元の結末を残す側に回っていたことも記録されている。ひとりの頑固な監督の武勇伝として語られがちだが、実際には複数の人間が別々の場所で同じ結末を守った結果らしい。 補足:ハリウッドの「最終編集権」とは 日本語で紹介されるときに抜け落ちがちなのだが、この一件の勝負どころは「誰が完成版を決めるのか」という契約上の力関係にある。ハリウッドの標準的な取り決めでは、公開版の編集を最終的に決める権利——いわゆる最終編集権(ファイナルカット権)は、出資する側、つまりスタジオや製作会社が持っている。監督は自分の編集案を出せるが、それを採用するかどうかを決めるのは監督ではない。試写の客の反応を見て終盤を撮り直す、という判断も出資者側から降りてくる。 監督が契約で最終編集権を勝ち取れるのは、興行成績と受賞歴を積み上げたごく一部の作り手に限られる。1990年代前半のフィンチャーは、長編は『エイリアン3』(1992年)の一本きりで、しかもその現場では自分の思いどおりに撮れなかった経験をしたばかりだった。要求を突っぱねられる立場では、まったくなかったのである。 だからこそ、撮影に入る前の脚本の段階で押し切ることに意味があった。編集室で守れないものは、そもそも撮らないという形でしか守りようがない。フィンチャーが稿にこだわったのは作家的な意地というより、権限の構造を踏まえた現実的な一手だった、とも読める。 海外の反応 1. 海外の名無しさん あの救いのない終わり方があったから、ただの刑事ものではなく心理サスペンスとして三十年語られてきたんだと思う。無難に着地させていたら、三人の出演作リストの中に埋もれていただけだ。 2. 海外の名無しさん(>>1への返信) 冒頭からずっと雨が降り続けて、最後にようやく空が開けた郊外に出るでしょう。あの画作りは結末とセットで設計されているから、終盤だけ別のものに差し替えるのは本当は無理な相談だった。 3. 海外の名無しさん ブラッド・ピットは、契約書に「この結末のまま撮ること」を求める条項を入れていたと本人が話している。撮影の土壇場で監督の頭越しに変更を通そうとする動きがあったから、これが効いたそうだ。 4. 海外の名無しさん(>>3への返信) 主演俳優が実質的な拒否権を握っていたというのが、当時の力関係をよく表している。監督より俳優のほうが交渉材料を持っていた時代なんだよね。 5. 海外の名無しさん 十三稿という数字がいちばん堪える。書き直すたびに少しずつ自分の話ではなくなっていく感覚は、脚本に限らず身に覚えのある人が多いんじゃないだろうか。 6. 海外の名無しさん(>>5への返信) 本人も後年「自分の脚本を台無しにしている自覚があった、あの時点で降りるべきだった」と振り返っているからね。結果的に元の稿が生き残ったのは、本人にとっても幸運な事故だった。 7. 海外の名無しさん 会社側が書かせた教会での決着、正直そっちも一度見てみたい。燃えている教会で犯人と対峙して撃ち合うというのは、映画の絵としては普通に成立するし、悪くないと思う。 8. 海外の名無しさん(>>7への返信) 絵としては成立するけど、それだと「追い詰めて倒す話」になってしまうんだよね。あの映画の怖さは、追い詰めたはずの側が最後に相手の手のひらの上にいたと分かるところにある。 9. 海外の名無しさん 少数派かもしれないけど、穏やかな結末でも駄作にはならなかったと思う。演出も撮影も音楽もすべて上等だから、着地が変わっても名作扱いはされていたはず。語り継がれ方だけが違っていただろうね。 10. 海外の名無しさん(>>9への返信) それは分かる。ただ三十年経ってもまだ箱の話で盛り上がっている時点で、あの結末が作品の寿命を確実に延ばしたのは事実だと思うよ。 11. 海外の名無しさん 会社の案どおりに最後まで撮っていたら、箱から出てくるのが厳重注意の書面だった可能性もあるわけで。「箱の中身はなんだ!」「……人員整理の通知です」 12. 海外の名無しさん(>>11への返信) それはそれで別ジャンルの傑作として観てみたい。あの場面のあとに軽快な音楽が流れ出したら、たぶん一生忘れられない映画になる。 13. 海外の名無しさん 経営陣が作品を潰した、あるいは潰しかけたという話を本当によく見かける。この人たちはいったいどうやって、その椅子に座ることになったんだろうか。 14. 海外の名無しさん(>>13への返信) 逆のパターンが表に出てこないだけだと思う。「重役の指示で変えたらもっと当たった」は記事にならないし、叩くほうが読み物として面白いから、そっちばかりが残っていく。 15. 海外の名無しさん(>>14への返信) しかも今回の件、同じ資料の中で当時の製作責任者が元の結末を守る側に回っていたと書かれているのに、この話題では誰もそこに触れていないという。 16. 海外の名無しさん 良い経営陣は「経営陣」として記憶されないんだよ。ケヴィン・ファイギみたいに名前のほうで覚えられるようになった時点で、もう肩書きの話ではなくなっている。 17. 海外の名無しさん 『ショーシャンクの空に』にも似た話がある。監督は原作どおりバスの中で終わらせるつもりだったのに、重役が「二時間半も観客を地獄に付き合わせたんだから、再会を見せる義務がある」と説得したそうだ。 18. 海外の名無しさん(>>17への返信) あれは重役のほうが正しかったと思う。あの浜辺の場面がないと、観終わったあとに手元に残るものが全然違っていた。口出しがすべて悪ではないという良い例だ。 19. 海外の名無しさん フィンチャーの件は『エイリアン3』のあとだと思うと余計に効く。好きに撮らせてもらえなかった直後の一本で、今度は一歩も譲らなかったわけだから。 20. 海外の名無しさん 別の結末もいくつか撮影されていたらしい。サマセットが自分の手で犯人を撃つ版とか、彼が田舎で穏やかに暮らしている姿を見せる版とか。監督が最後まで拒んだのは後者だったと言われている。 21. 海外の名無しさん(>>20への返信) 田舎の風景で締めると、あの最後のナレーションが丸ごと台無しになるからね。彼が結局この街に留まると決めたからこそ、あの一言が効いている。 22. 海外の名無しさん 犯人が負けているのに勝っている、という決着の付き方が完璧だった。撃たれて死んでいるのに、全部その人の狙いどおりになっているという後味の悪さがすごい。 23. 海外の名無しさん 『ライラの冒険 黄金の羅針盤』も原作の暗い幕切れを映画版でごっそり削られて、続編を作る足場ごとなくなってしまった。ああいう例を見ると、押し切れた『セブン』は本当に例外だったんだと思う。 24. 海外の名無しさん ここまで読んで思ったんだけど、「手違いで古い稿が届いた」というところ、本当に手違いだったのかな。誰かが分かっていて紛れ込ませたんじゃないかと、ちょっと疑っている。 25. 海外の名無しさん(>>24への返信) その説、関係者が誰も強く否定しないところがまた良い。真相はどうあれ、映画史でいちばん得をした事務ミスであることは間違いない。 まとめ 「暗すぎる」という理由で一度は消された結末が、手違いで届いた一束の紙のおかげで生き延びた。コメント欄で目立つのは「あの終わり方がなければ、ただの刑事映画として忘れられていた」という声だが、一方で「穏やかな結末でも十分に名作だったはず」という冷静な意見も少なくない。話題は自然と、経営陣の口出しが作品を殺した例と救った例の両方へ広がっていった。『ショーシャンクの空に』の再会シーンは重役の説得で足されたものだ、という書き込みに多くの賛同が集まっていたのが象徴的だった。潰した話ばかりが語り継がれるのは、そのほうが面白いからでもあるらしい。 元ソース: 会社側の圧力で、脚本家アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーは『セブン』の結末を穏やかなものに変えかけていた。しかし監督を打診されたデヴィッド・フィンチャーには手違いで元の結末が残った稿が届き、彼はその稿以外で撮ることを拒んだ The post 「脚本家は13稿も書き直させられた」映画『セブン』のあの結末、危うく別物になりかけていた appeared first on みんな知ってた?【海外の反応】.…