推理小説を読んでいて、最後の解決編で初めて出てきた証拠を根拠に犯人を指名されると、なんとも言えない気持ちになる。そんなもの、こちらは一度も見ていない。実はこの「それは無しだろう」という感覚、100年前の作家たちが集まって明文化し、宣誓までして守ろうとしたルールだった。名前を「フェアプレイ」という。 今日の知ってた? 🔍 推理小説の「フェアプレイ」とは、作者は読者に謎を解く公平な機会を与えなければならない、という取り決めのことである。1920年代の英米で流行した「クルー・パズル」(手がかりを組み立てて解く型の推理小説)を支えた中心的な考え方で、事件の解明に不可欠な手がかりはすべて読者の目に触れる形で提示され、読み取れる状態に置かれ、最後の解決編まで隠されてはならないとされた。アガサ・クリスティーらが活躍したこの時期は、いまも推理小説の黄金時代と呼ばれている。 背景:作家たちが「読者との約束」を紙に書いた時代 おかしな話ではある。小説の書き方に決まりを作って、それを守ると誓う——ほかのジャンルではまず起きないことが、1920年代の推理小説では実際に起きた。 背景には、このジャンルの特殊な性質がある。推理小説は、読者と作者が同じ盤面を見て勝負するゲームとしての側面を持っている。だが盤面を用意するのは作者のほうだ。作者はいくらでも駒を隠せるし、後から盤の外に駒を追加することもできる。それをやられた瞬間、読者にとってこの勝負は成立しなくなる。ジャンルが人気になればなるほど、「どこまでが工夫で、どこからが反則なのか」を決めておく必要が出てきた。 最初に基準を紙に書いたのは、アメリカの推理作家S・S・ヴァン・ダインである。1928年に発表した「探偵小説作法二十則」で、彼は「読者は探偵と同じ機会を与えられなければならない。すべての手がかりは明白に記述されていなければならない」を第一条に置いた。翌1929年には、イギリスの聖職者にして推理作家のロナルド・ノックスが、通称「探偵小説十戒」を発表する。犯人は物語の早い段階で登場していなければならない、超自然的な力を解決に使ってはならない、未発見の毒物を使ってはならない、といった条項が並ぶ。 そして1930年、ロンドンで作家たちがディテクション・クラブという集まりを結成した。初代会長はG・K・チェスタトン。会員にはクリスティー、ドロシー・L・セイヤーズ、そしてノックス本人が名を連ねている。この会には入会の宣誓文があり、新会員は「あなたの探偵たちは、あなたが授けた知恵によって事件を解明し、神の啓示・女の勘・まじない・ごまかし・偶然の一致・天の配剤に頼らないと誓いますか」という趣旨の問いに答えることになっていた。半分は遊びである。ただし、遊びの体裁を借りてでもジャンルの作法を共有したかった、という熱量のほうが本体だった。 きっかけの一つとして必ず名前が挙がるのが、1926年のクリスティー作品『アクロイド殺し』である。発表当時、この作品が「フェアなのか、アンフェアなのか」で読者と評論家を真っ二つにした。手がかりは確かに全部書かれている、という擁護と、あんなやり方は約束を破っている、という批判が正面からぶつかった。ヴァン・ダインとノックスが相次いでルールを書き出したのは、その論争の直後にあたる。フェアプレイという言葉は、揉めた末に必要になった言葉なのだ。 もっとも、これらの条項が全部そのまま生き延びたわけではない。ノックスの十戒には、いまの目で読むと明確に差別的で、当時の偏見がそのまま条文化されただけの項目が含まれている。ヴァン・ダインの二十則にも、恋愛描写を入れるな、使用人を犯人にするなといった、単なる好みの押し付けが混ざっている。残ったのは、結局のところ最初の一条だけだったと言っていい。手がかりは読者に見せておくこと。それだけが100年もった。 もう少し詳しく 「読者への挑戦」という発明。フェアプレイを最も極端な形にしたのが、アメリカのエラリー・クイーンである。1929年の『ローマ帽子の秘密』以降、彼らは初期作品の終盤に本文を一度中断させ、「この時点で、読者は犯人を特定するのに必要な手がかりをすべて手にしている」と読者へ直接呼びかけるページを差し込んだ。ここまで読んで解けるなら解いてみろ、という挑戦状である。物語の途中で作者が顔を出すのは普通なら禁じ手だが、このジャンルでは「隠していない」ことの証明として機能した。 そして、この作法は日本で生き延びた。英語圏では第二次大戦後、パズル的な推理小説は下火になっていく。人間の心理や社会の描写に重心が移り、ルールに縛られた謎解きは古臭いものと見なされた。ところが日本では事情が違った。1920年代の日本にはすでに「本格探偵小説」という呼び名があり、論理的な謎解きを主軸に置く作品群を指していた。ちなみに、この時期を代表する作家江戸川乱歩のペンネームは、推理小説の生みの親エドガー・アラン・ポーの名前をもじったものである。 島田荘司『占星術殺人事件』(1981年)。今回のスレッドで、日本の作品として真っ先に名前が挙がったのがこれだった。英語圏でも翻訳が出ており、海外の読者が驚いたのは物語の8割ほど進んだところで突然挟まれる、読者への呼びかけのページである。解決に必要な情報はすでにすべて提示した、という宣言が本文の途中に現れ、そのまま物語が続いていく。50年前にクイーンがやった作法が、1981年の日本で現役だったわけだ。 そして「新本格」へ。1987年、綾辻行人の『十角館の殺人』が刊行されると、若い書き手が次々に本格の作法を選び直し、新本格と呼ばれるムーブメントになった。手がかりを全部置いた上で読者を出し抜く——という、いったん時代遅れとされた勝負の形が、日本ではジャンルとして太いまま残った。日本の読者にとってフェアプレイの感覚がなじみ深いのは、この流れがあるからである。『金田一少年の事件簿』や『名探偵コナン』のように、読者や視聴者が探偵と同じ材料を握って推理できる前提で作られた作品に、子どもの頃から触れてきた人も多いはずだ。 ではフェアかどうかは誰が決めるのか。ここが厄介なところで、フェアプレイに審判はいない。手がかりは確かに書いてあった、しかし読者がそれを手がかりだと気づけないように書いてあった——という場合、それはフェアなのか。クリスティーが名手とされるのは、まさにこの線の上を歩き続けたからである。隠さないまま、見えなくする。目立たない一文に紛れ込ませる、どうでもいい会話の中に置く、読者が別のことに気を取られている場面で通り過ぎさせる。物理的には提示済みで、心理的には未提示。フェアプレイという取り決めは、この「読み飛ばさせる技術」を鍛える方向に、ジャンル全体を押し出したとも言える。 海外の反応 1. 海外の名無しさん シャーロック・ホームズはこのルールを堂々と破っているよね。最後の最後で、読者が一度も見ていない証拠をどこからともなく取り出してくる。 2. 海外の名無しさん(>>1への返信) ホームズの魅力はそもそも謎解きではなく、ホームズという人物のほうだからね。あのキャラクター造形はジャンルを変えても成立する。医療ドラマの『ドクター・ハウス』はまさにホームズを病院に置いたものだ。 3. 海外の名無しさん(>>1への返信) 「フェアプレイ」の解説記事にホームズの絵が使われているのをずっと不思議に思っていた。フェアプレイってポーやドイルへの反動として出てきた考え方なのに。よく見たらリンク先が「推理小説における手がかり」という別の項目だった。 4. 海外の名無しさん 島田荘司の『占星術殺人事件』を読んでいたら、8割ほど進んだところで突然「解決に必要な情報はすべて提示した」というページが挟まってきて、そのまま何事もなかったように話が続いていった。あれは面食らった。 5. 海外の名無しさん(>>4への返信) 昔ながらの本格ものの定番だよ。ここまでで材料は出揃った、自分で解きたいならどうぞ、という区切り線。解いてから続きを読んで答え合わせをする楽しみ方が前提になっている。 6. 海外の名無しさん(>>4への返信) 日本のミステリはこの取り決めをいまだに真面目に守っている印象がある。英語圏では1930年代でほぼ廃れた作法が、向こうでは現役のジャンルとして生き残っているのが面白い。 7. 海外の名無しさん これは推理小説と刑事ドラマの一番大きな違いでもある。刑事ドラマが見せるのは捜査の手順で、推理小説がやっているのは謎の部品をあらかじめ読者の前に並べておくことなんだよな。 8. 海外の名無しさん 自分はいまだにスクービー・ドゥーの法則を信じている。最初に事件を騒ぎ立てた人物が犯人、というやつ。あれは打率が高い。 9. 海外の名無しさん(>>8への返信) スクービー・ドゥーには長いこと「幽霊も怪物も一切出てこない、正体は必ずお面をかぶった金持ちの爺さん」という鉄則があった。信じやすい人たちを脅かしていただけ、という落とし方をずっと続けていた。最近はそれも捨ててしまったけどね。 10. 海外の名無しさん 世界で最初の推理小説は、犯人が突然オランウータンだったと判明して終わるわけだが。もっと多くの作品が、オランウータンによる強制終了で締めくくられるべきだと思う。 11. 海外の名無しさん(>>10への返信) ジャンルそのものを発明したうえにホラーまで進化させたポーには頭が上がらない。日本の江戸川乱歩に至っては、ペンネームがそのままポーの名前のもじりだしね。 12. 海外の名無しさん これが無いせいで最近のミステリはだいたい面白くない。とはいえクリスティーもかなり無茶をやる人なので、正直こちらに勝ち目があったためしがないのだが。 13. 海外の名無しさん(>>12への返信) 『そして誰もいなくなった』の結末には同じことを思った。読み返せば確かに材料は置いてあるんだけど、初読で当てるのはさすがに無理だろうと。あれでしばらくクリスティーから離れてしまった。 14. 海外の名無しさん 探偵小説のルールを明文化した人は何人かいて、1928年のヴァン・ダイン「探偵小説作法二十則」が有名。中身にはさすがに古びたものもあるけれど、大半はいまでも通用する。 15. 海外の名無しさん(>>14への返信) 読書会でその二十則を先に読んでから推理小説を何冊か読んで、一作ずつ条項に照らして採点していったことがある。議論の枠組みとして最高によく機能した。全員の言い分が具体的になる。 16. 海外の名無しさん 『ナイブズ・アウト』の1作目が続編より良かった理由はここだと思う。探偵が知っていることを、こちらも同じだけ知っている状態で最後まで見ていられた。 17. 海外の名無しさん ゲームの『ヘビーレイン』にはずっと言いたいことがある。物語の見せ方は絶賛されているが、あれは犯人を絞らせないためにプレイヤーへ嘘をつく。妻にやらせたら8割ほど進んだところで「犯人はこの人だと思うけど、ゲームがそれはあり得ないと言ってくるから私が間違っているんだろうね」とこぼしていた。結果、妻のほうが正しかった。 18. 海外の名無しさん(>>17への返信) アニメの台詞を借りるなら「いや、それはただの嘘だ。嘘はどんでん返しとは言わない」だね。読者を出し抜くことと、読者に嘘をつくことは別の作業なんだよ。 19. 海外の名無しさん ホームズ全集を読み直したところ、想像していた以上にアンフェアで驚いた。当時はジャンル自体が新しくて、ドイルはホームズの推理力で読者を感心させることに集中していたんだと思う。語り手のワトソンと一緒に呆然とするのが正しい読み方で、先回りする余地は最初から用意されていない。 20. 海外の名無しさん(>>19への返信) 襟についたチョークの粉ひとつで、その人物が10歳で孤児院に置き去りにされ、若い頃にポリオを生き延び、第一次大戦で機関銃手として従軍し、7番街の桃の木が伐採された件で新市長に殺意を抱いていることが分かるわけだからね。当然だろう。 21. 海外の名無しさん 『オリエント急行殺人事件』の映画に、探偵がオーストリア人の医師へ聞き込みをする場面がある。その医師が食事に添えるクリームを「ザーネ」と注文した。ちょうど前の週にウィーンへ行っていたので、連れに「あれは制作側のミスだ。ザーネはドイツの言い方で、オーストリア人なら必ずオーバースと言う」と得意げに指摘した。ところが、その男はそもそもオーストリア人ではなくて、探偵はまさにその一語を手がかりに見抜くのである。あのときばかりは自分を誇らしく思った。 22. 海外の名無しさん 『刑事コロンボ』が好きな理由もたぶんこれだ。犯人は最初から明かされていて、コロンボがそれをどう立証していくかを眺めるのが楽しい。情報を一切隠されないという意味では、究極にフェアな形式なのかもしれない。 23. 海外の名無しさん 良いどんでん返しは、良いミステリとほぼ同じルールで動いている。ひっくり返った瞬間に、そこまでの伏線を全部思い出せるかどうか。『シックス・センス』が「実はブルース・ウィリスは最初からキリンでした」で終わっていたら、誰も名作とは呼ばなかった。 24. 海外の名無しさん その点で『逆転裁判』は本当によく出来ている。矛盾を突くのに必要な材料は必ず手持ちの証拠品の中にあって、詰まったときは自分の見落としだと素直に納得できる。負けても理不尽さが残らないのは、実はかなり難しいことだと思う。 まとめ フェアプレイは、作品を縛るために生まれた規則ではなく、読者と作者のあいだで勝負を成立させるための最低限の取り決めだった。1928年のヴァン・ダイン、1929年のノックス、1930年のディテクション・クラブ——立て続けに条項が書かれ、宣誓文まで用意されたのは、それだけこのジャンルが「反則をやろうと思えばいくらでもやれる」構造を抱えていたからである。そして100年後に残ったのは、細かい禁止事項の大半ではなく、最初の一条だけだった。手がかりは読者に見せておくこと。 コメント欄も、ホームズは実はかなりアンフェアだったという指摘から始まり、スクービー・ドゥーの経験則やオランウータンで終わる世界初の推理小説といった脱線を挟みつつ、映画・ドラマ・ゲームへと話題が広がっていった。面白かったのは、日本の『占星術殺人事件』に挟まれた読者への呼びかけのページに海外の読者が驚き、「あの作法はまだ現役だったのか」と受け止めていたことだ。英語圏でいったん役目を終えた取り決めが、こちらでは本格・新本格として生き残っている——そのねじれが、コメント欄の側から浮かび上がってきた回だった。 元ソース: 「推理小説の『フェアプレイ』とは、作者が読者に謎を解く公平な機会を与えなければならないという原則のこと。アガサ・クリスティーらによる1920年代の『クルー・パズル』の中心にあった考え方で、重要な手がかりはすべて読者の目に触れ、読み取れる状態にあり、最後の解決編まで隠されてはならないとされた」(元スレッド) The post 「重要な手がかりは、最後まで隠してはならない」100年前の作家たちが宣誓までして守った”読者との約束”とは appeared first on みんな知ってた?【海外の反応】.…