1 名前:昆虫図鑑 ★:2025/08/13(水) 15:41:50.79 ID:enoHpLtX.net 1950年代に忠武公記念会が作った偽りの李舜臣神話 忠武公・李舜臣(イ・スンシン)が国にもたらした貢献は、韓国人なら誰であれ尊敬の念を抱かせる。尊敬と敬慕は神話を作る。神話の中には真実もあり、誇張もあり、偽りもある。不必要な操作と捏造(ねつぞう)でその品格を落としてしまうとしたら問題は大きい。その偽りの中で代表的な主張が、「日本の東郷平八郎が李舜臣をたたえた」という虚構だ。 ■日露戦争戦勝記念式 ソウルの世宗文化会館地下2階には「忠武公の話」という展示空間がある。展示空間の端の部分に、李舜臣についてのさまざまな人物の評価が記されている。その中に、こんな内容が見られる。 「東郷平八郎、日本の提督:賞賛を受けてありがたいのだが、私に言わせればネルソンは軍神ではない。真に軍神の称号を受けるに値する提督がいるとするなら、それは李舜臣だろう」。東郷平八郎は1905年、日露戦争において対馬海峡でロシアのバルチック艦隊を撃破した日本海軍の司令官だ。 こうした称揚は1960年代の日本の左翼系書籍にも見られる。「日露戦争のときに東郷平八郎が日本海海戦で大勝利をして凱旋(がいせん)した。彼は元帥になった。そのお祝いの席上である人がおべっかをつかって『このたびの大勝利は歴史に残る偉大なものだ。ちょうど、ナポレオンをトラファルガーの海戦で敗ったネルソン提督に匹敵すべきあなたは軍神である』と言った。東郷はそれに答えて『お褒めにあずかって恐れ入るが、私に言わせればネルソンというのはそれほどの人物ではない。真に軍神の名に値する提督があるとすれば、それは李舜臣ぐらいのものであろう。李舜臣に比べれば自分は下士官にも値しないものである』と言っています」(安藤彦太郎他『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』、 日本朝鮮研究所、1964、pp6-7) 韓国国内の各新聞も同様だ。「東郷平八郎は『海軍の歴史上、軍神と言える提督がいるとしたら、李舜臣将軍ただ一人』と褒めたたえている」(2022年9月19日付『全南日報』)。個人ブログでは、同じような話があふれている。韓国人に民族主義的プライドと快感を与えるエピソードではないか。 ところがこうした話のどこにも、出典は出ていない。いつ、どこで、東郷がそんなことを言ったのか分からない。出典なしに、時期や場所、主人公を変えながら事実であるかのように出回っている。この発言は一体、どこが出所なのだろうか。 本当に残念で、そして驚くことに、この発言の始まりは民族主義の歴史学者、朴殷植(パク・ウンシク)だ。彼の主張を事実として確定してしまった主体は、1960年代まで活動していた大韓民国「忠武公記念事業会」だ。この事業会は、48年に申翼煕(シン・イクヒ)、安浩相(アン・ホサン)、李丙燾(イ・ビョンド)、鄭寅普(チョン・インボ)などが創立した。 (略) そして1921年、中国・上海で、東郷が李舜臣を称賛したと主張する記述が出現した。書いたのは上海臨時政府の要人だった民族主義歴史学者の朴殷植で、タイトルは『李舜臣伝』だ。「日本の海軍大将東郷平八郎は、李舜臣に似たいと願ったが、ネルソンに似たいとは願わなかった」(朴殷植『李舜臣伝』〈四民報〉。『白岩朴殷植全集』第4巻、2002年、p638)。この朴殷植『李舜臣伝』が、最初の記録だ。朴殷植は出所を明かさなかった。 そして14年後の1935年、「李舜臣はネルソンより優れている」と「日本の将軍」が発言したという主張が再び出てきた。だが、その「将軍」は東郷ではなかった。 「元連合艦隊司令長官末次大将の演説でも、李舜臣を名将だとしている」(弁護士ホ・ホン、『三千里』1935年3月号)、「大阪毎日新聞を見た宋鎮禹(ソン・ジンウ)が、末次大将が李舜臣をネルソンよりも優れた名将だと演説した、と伝えた」(7月号) 二人によると、こうした評価をした人物は東郷ではなく別の日本の司令官、末次信正だった。演説を行った時期は1934年10月15日で、場所は大阪公会堂だった。ところがこの演説文の録取記録を見ると、李舜臣について末次が行った発言はこのように記録されている。 「朝鮮では当時の名提督李舜臣の史跡を非常に誇りにしている」(ソク・ヨンダル他、前掲論文) これが全てだ。李舜臣がネルソンより優れているという話はない。にもかかわらず、韓国国内の知識人は「新聞を見ると」という伝聞形式で、日本の将軍が李舜臣を称賛したと主張した。だがそれすら、「日本の将軍」は東郷ではなく第三の人物だった。 朴鍾仁(パク・チョンイン)記者 引用元:…