
1: 名無しのがるび 2025/11/02(日) 09:21:26.37 ID:9XE2h/oP9 2025年11月2日8時0分 日刊スポーツ 村上幸将 (※抜粋) 山下達郎が50年大切にしてきた日常「普通に生きている人間が、一番偉い」その心を聞く >> ★日本語でロックを (※中略) ★皆、売れなかった 「ロックは皆、売れなかった。ロフト、JIROKICHIという自主で始めたところができるまではライブハウスもなかった。SUGAR BABEはライブハウスの動員は良かったけれど、他のバンドと対バンをやると受けないし、ヤジられる。ロックは客を乗せてナンボ。でも僕らは内省的なことをやっていた」 78年ころにサザンオールスターズ、世良公則&ツイストが音楽番組をにぎわせるようになるまでテレビの出演もかなわなかった。それが、テレビに出ないというポリシーへとつながった。 「テレビはスタッフが日参しても『ダメ、ダメ』と言われて。ツイストやサザンオールスターズの時代になったら普通に出られたんですよ。僕らの時は出られなかった。SUGAR BABEでのテレビ出演はテレビ神奈川の『ヤング・インパルス』1度きり。生演奏した映像が1曲だけ残っている。売れた後に『出してやる』と言われて『結構です』と断ったら『テレビ拒否派か』となって。だけど、あなたたちが出してくれなかったんじゃない。だったらライブとレコードで別にいいじゃん、と」 ★「70%、運」と断言 ソロでも、厳しかった。 「初めの4年は結構、大変だった。親に勘当される寸前だったし、食いぶちは他で稼がないとならなかった。広告代理店の人が、大滝さんの後ろでゴソゴソやっていたのを見て『CMやってみるか?』と。三愛のバーゲンが最初。次が不二家のハートチョコレート。コーラス、作曲、編曲…できることは何でもやった」 「これが最後だと思って」出した78年「GO AHEAD!」の1曲「BOMBER」が大阪のディスコで火が付き、80年「RIDE ON TIME」で、ついにブレークした。 「70%、運です。僕より才能がある人なんていくらでもいたけど残れなかった人もいる。分かつものが何かは分からない。選ぶのはお客さんの耳。ついてきてくれるので続けていられる」 一貫して、大切にしてきたことがある。 「日常です。観客と自分の距離をなるべく詰めたいというか…始めた時から、ずっと同じ。それが失われていないか確認したいんで(キーボード難波弘之、ベース伊藤広規と)3人ライブを始めました。普通に生きている人間が一番、偉いんですよ。大衆に奉仕しなきゃダメ」(※中略) ★自ら「傍流」と評す 楽曲は近年「シティ・ポップ」として海外でも人気を集める。なぜ自らを「傍流」と位置付けるのか。 「テレビに出なきゃ、芸能人としては一流とは言えないでしょう(笑い)。将来は裏方に行くと思っていた。82年にMOON RECORDSを作った時、ビジネスパートナーに『何年やりゃあいいんだ?』と話したら『90年まで頑張ってくれ』と。その時は37歳だから最初で最後の武道館をやって引退して制作部長になるつもりが、90年に『クリスマス・イブ』が1位になって。でも97年ころまでは辞めたらどうする? と考えていました」 貫いてきたことがある。 「小さなプライドですけど…レコードの印税とライブのギャラでしか生活してきませんでしたから。80年代に、夫婦でCMに出たら1億円という話があった。そんなのやったら曲なんて書けませんよ。印税なんてCD1曲で3円75銭ですから。曲を書くのって結構、地獄です。命を削るって言ったら大げさだけど、悩んでる時に、CMやったら4000万円だよなと、フッと思う…50年やって350曲も書くと、ますます追い込まないと曲なんてできませんから。昔、ある女性タレントの人から『汗水たらして働かなくたってCM3本やればバッチリよ』って言われて。あんたと俺は違うからって…そういう発想でやってたら、ものなんて作れない」 今年も全国ホールツアー「PERFORMANCE2025」を始めた。 「海外公演のオファーもあるけれど、海外に行く暇があったら地方で行けていないところに行きます。番組(TOKYO FM『山下達郎のサンデー・ソングブック』)を33年やっていて、最近は『手術した時に達郎さんの曲を聴いて…』とか、すごく増えた。まだまだ役目はあると思っている。真面目に働いている人たちのために音楽をやってきた…それだけは全く動かないし、譲らないです」 (※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)…