引用元: それでも動く名無し 2025/08/09(土) 12:30:15.85 ID:tSGlNMW90 広島に原爆が投下された時、私はまだ5歳でしたが、80年たっても絶対に忘れられません。 外に出て遊ぼうと思って、家の戸を開けた瞬間に「ピカーッ」という光が見え、「ドーン」と音がしました。「ピカドン」ですね。風圧で家は全滅しました。15分ぐらい気絶していたでしょうか。気づいた時には、母の腕に抱かれていました。目を開けると、赤い色が見えました。白い服を着ていた母にガラスが刺さって血が出ていたからでした。 近くのブドウ畑に逃げると、すでに人が集まってきていました。忘れられないのは、数千度の熱で人の肉が焼かれた臭いです。それとうめき声、叫び声。苦しかったでしょうね。 8月6日が近くなると、被爆死した6歳上の姉のことを鮮明に思い出します。姉は爆心地近くで勤労奉仕をしていました。全身やけどを負って担架で運ばれる姉の姿を見た時は、幼心に胸が締めつけられました。 姉は色白で背が高くて、本当に自慢の姉でした。友達からも「勲ちゃんはええのう。きれいなお姉ちゃんがおって」と言われていました。花で輪を作ってかぶせてくれたり、大きなハマグリを取りに行った時には「勲ちゃん、これあげる」とくれたりする優しい姉でした。今でも悔しい。 でも、母はもっとつらかったと思います。まな娘が徐々に死んでいくんだから。母は自分の着ていたものを半分に裂いて敷き、「お母ちゃん痛い。苦しい」という姉の声を聞いていました。 「あの惨状を見ても、あなたはまだ戦争を続けますか」と聞きたいですね。人間に知恵というものがあるなら、あれは人間のやることじゃない。 7: それでも動く名無し 2025/08/09(土) 12:36:19.67 ID:pGssHtQb0 貴重な証言やな 9: それでも動く名無し 2025/08/09(土) 12:38:11.71 ID:I2ZKjB790 なんで真面目に守備やらない野球選手になってしまったんや…