1: 七波羅探題 ★ 2025/09/09(火) 07:43:16.66 ID:0Zt+VBLQ9 Merkmal9/9 名古屋と聞いて「水上交通」を思い浮かべる人はほとんどいない。川や運河といえば大阪、港町といえば横浜、観光遊覧船といえば京都や広島を思い浮かべるかもしれない。名古屋にはそうしたイメージは皆無である。むしろ、水に縁遠い都市という印象すらある。 ところが近年、名古屋市は堀川や中川運河を舞台に ・水辺再生 ・水上交通復活 に取り組んでいる。親水空間の整備や舟運の社会実験も進め、かつて物流の大動脈だった川筋を市民や観光客の場としてよみがえらせようとしている。 では、道路網が発達した「道路王国」名古屋で、なぜ水上交通を打ち出すのか。市民の間では「そんなの誰が使うのか」という素朴な疑問が先に立つ。実際、栄近くの水辺は歓楽街に隣接し、観光地らしい華やかさとは趣が異なる。港エリアも生活色や地元色が強く、リゾート的なイメージにはつながりにくい。それでも市が執念を燃やす背景には、単なる交通利便性を超えたテーマがある。それは「都市ブランド」という名古屋の都市構造の宿痾(しゅくあ)に関わる課題だ。水運の歴史をたどることは、名古屋という都市の矛盾と可能性を読み解くことにつながる。 名古屋は道路都市という印象が強い。しかし、その成り立ちは水運に支えられていた。江戸時代、尾張藩は名古屋城(1612年完成)の築城に合わせ堀川を開削した。木曽川流域の木材や濃尾平野の米を伊勢湾から城下に運び、藩の財政と暮らしを支えた。当時の舟運量は年間数万石に達し、今日の幹線道路や鉄道に匹敵する物流基盤となっていた。 昭和初期には全長約8kmの中川運河が完成し、名古屋港と市街地を直結する工業インフラとなった。周囲には倉庫や工場群が集まり、名古屋を工業都市として押し上げた。特に陶磁器は輸出品として名を馳せ、1960年代には横浜港に迫る規模にまで成長した。 しかし高度経済成長期、モータリゼーションの波により輸送の主役は船からトラックへ移った。平坦な地形を生かして道路整備が進み、高速道路や片道3車線以上の広幅員道路が縦横に走る都市構造が形成され、水運はほぼ役割を失った。 ここに名古屋の特殊性がある。東京や横浜は港湾を観光と結びつけ、大阪は道頓堀など一部の川筋を都市演出に活かしてきた。しかし名古屋では堀川や中川運河が「裏の景観」に追いやられ、道路と工業が都市発展の表舞台を独占した。この分岐点こそ、水辺の魅力に乏しい名古屋を生んだ背景である。 名古屋市が水辺再生に本格的に取り組む契機は、2000年代以降に高まった市民の環境改善要求である。堀川では長年、水質悪化が課題となり、浄化や親水空間の整備を求める運動が展開された。中川運河も産業利用が低下し、空間が十分に活かされず、新たな役割が必要と認識された。こうした背景から、2012(平成24)年に「堀川まちづくり構想」と「中川運河再生計画」が策定され、水辺再生は都市戦略のひとつに位置づけられた。 堀川まちづくり構想では、水質改善を軸に川沿いのプロムナードや緑地を整備する。歴史的な橋梁や建物のライトアップも行い、「憩いと景観の川」への転換を進めている。 一方、中川運河再生計画では、倉庫群のリノベーションや都市型公園の整備に加え、防災機能を備えた多機能空間への転換を推進する。ささしまライブ24の再開発と連動させ、都心から運河エリアへの人の流れを生み出す狙いもある。 この動きを象徴するのが、2026年開業予定の複合施設「NAKAGAWA CANAL DOORS」である。ホテルや飲食店、広場を備え、水辺を「目的地」として再生する拠点となる。歴史や文化の発信に加え、イベントや回遊を支える場としても期待される。こうした公共整備と民間投資が呼び水となり、カフェや小規模ホテル、アートイベントなど、都市型観光やライフスタイルの新たな芽が広がりつつある。 しかし、この名古屋市の水辺再生の狙いを裏返すと、都市ブランドの課題が浮かび上がる。名古屋が水辺再生に取り組むのは、観光や都市イメージの弱さを補うためである。経済規模では東京・大阪に次ぐ日本第三の都市圏を誇るにもかかわらず、観光や都市魅力度ランキングでは下位に沈む。 その理由をひも解くと、名古屋は「見るものはあるが、体験するものが少ない都市」であることに行き着く。名古屋城や熱田神宮、名古屋港水族館やレゴランドなど観光資源は豊富だ。食文化も味噌煮込みうどん、ひつまぶし、手羽先、モーニングと多彩だ。しかし、京都の町歩きや札幌の雪まつり、福岡の屋台のように「街そのものが舞台になる」仕掛けは乏しい。そのため観光客は「一度行けば十分」と感じやすい。 ※以下引用先で 引用元: ・観光客「一度行けば十分」そんな名古屋が水上交通に執念を燃やすワケ「道路王国」なのになぜなのか [七波羅探題★]…