1: 樽悶 ★ rjnoZcMc9 2025-08-13 07:37:04 1985年8月12日に起きた、日航123便事故。123便は羽田空港を離陸した32分後に群馬県の御巣鷹山に墜落し、乗客乗員520人が犠牲となった。発生から40年が経過した現在でも、日本の航空史上最悪の事故として語り継がれている。 ■さまざまな原因が流布される理由 この事故をめぐっては、数々の疑惑が取り沙汰されてきた。航空事故調査委員会による事故調査報告書は事故原因を「ボーイング社の修理ミスによる、後部圧力隔壁の破損」と結論づけたが、この結論に対してはさまざまな方向から異論が出されており、今もって他に事故原因が存在するという説も唱えられている。また「123便はミサイルによって撃墜された」とする主張なども存在しており、ネット上にはデマや陰謀論めいた「原因」も転がっている。 この123便の事故について、新たな方向から光を当てた書籍が『日航123便事故 40年目の真実 御巣鷹の謎を追う 最終章』(宝島社)である。著者は『赤旗』の取材班リーダーとして40年前に事故現場への取材を敢行したジャーナリスト、米田憲司氏。米田氏は事故取材をきっかけに123便事故について関心を持ち続け、1995年に米軍の準機関紙『スターズ・アンド・ストライプス』に掲載されたマイケル・アントヌッチ中尉の証言を読んだことで再び本格的調査に着手。30年にわたる調査・取材を経て、123便事故をめぐる数々の疑惑について結論を見出し、「真の事故原因」を推測した。その経緯と結論をまとめたのが、『日航123便事故 40年目の真実』なのである。 本書では事故発生直後からの米田氏の足取りや取材の様子に始まり、なぜ事故現場の特定に11時間という時間がかかったのか、ボイスレコーダーの調査は正確だったのか、調査委員会はなぜ「後部圧力隔壁の破損」を事故原因としたのか、そして真の事故原因とはなんだったのか、といった数々の疑問に、取材で得られた結果を基に答えている。では、本書の取材の経緯や、執筆に至った問題意識はどのようなものだったのだろうか。著者である米田氏に直接伺った。 ■8月12日夜に何が起こったのか ──これまでの取材・執筆の経緯を教えてください。 米田:自分は、事故当初から墜落現場で取材しました。8月12日の夜は墜落現場について誤報が続き、翌朝になってようやく長野県警のヘリによって墜落現場が確認されています。その際、自衛隊の捜索がなぜ遅れたのかという疑問が残りました。 そういった疑問を抱えたなか、1995年に米空軍のアントヌッチ中尉が、事故直後にC-130輸送機のナビゲーターとして事故現場の位置を正確に確認しており、さらに座間の基地から米陸軍のヘリが生存者確認のために飛んでいた事実を明らかにしました。これは事故から2年後にまとめられた、事故調査報告書には触れられていない事実です。 ──米軍が先行して事故機の位置を突き止めていたというのは、自分も知りませんでした。 米田:そういった事実を知ったことで、事故当時から抱いていた123便事故全体に関する疑問を、再取材によって明らかにしたいと考えたんです。その5年後には内部告発によって123便のボイスレコーダーの内容をスクープし、事故から20年後の2005年には『御巣鷹の謎を追う 日航123便事故20年』を刊行しました。 (省略) ──そういった誤報は自衛隊が事故に関与していないことを確認するための時間稼ぎだったのではないか、という説が米田さんの本には書かれていて、これにも驚かされました。ただ、取材や論拠のないデマなども、この事故に関しては数多く存在しています。SNSやネットの発展で、そういったデマが広がりやすくなりました。 米田:そうですね。ただ、アントヌッチ証言があった1995年ごろから、ミサイルで撃墜されたとか何らかの飛行物体とぶつかったとか、そういった話は出ていました。なので、123便の事故に関しては陰謀論めいた話やデマが出回るのは、それほど最近の話でもないんです。 ──昔からいろいろと憶測が出がちな事故だったわけですね。 米田:それはなぜかというと、自分は事故調査委員会の報告書に原因があると思っています。この報告書は「事故の7年前に機体が尻もち事故を起こして、その修理をする際にボーイングがミスを犯し、それによって機体後部の圧力隔壁に破損が生じた。そこから与圧された客席の空気が漏れ、垂直尾翼の破損につながった」という結論が書かれています。しかし、この結論については私以外にも「おかしい」と思っている人がたくさんいるんです。航空関係者にもいますし、遺族の方にもいる。(以下ソース) 2025年8月12日 17時0分…