1 名前:樽悶 ★:2026/11/07(土) 23:55:17.00 ID:GU6rMTow9.net 京都や奈良での観光で必ず目にする仏像はもちろんのこと、経営者が大好きな「論語」や、アニメや映画でもお馴染みの「陰陽師」など、私たちの暮らしの中には、中国から伝わった仏教・儒教・道教の影響が数多く残っていますが、駒澤大学名誉教授の瀧音能之氏によれば、こうした影響ははるか飛鳥時代に端を発したものだといいます。本稿では、5世紀末以降、続々と海を渡ってやってきた渡来人が持っていたさまざまな技術と、飛鳥時代の日本に与えた大きな影響について、瀧音氏の監修書『カラーMAP付き 世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」を歩く』から一部を抜粋・編集する形で紹介します。 ■養蚕から機織り、酒造…飛鳥文化の根底を築いた渡来人 5世紀末頃、朝鮮半島での戦乱を逃れ、百済や新羅から多くの渡来人が日本に渡った。 国づくりや文化の向上を急務としていたヤマト政権にとって、渡来人を配下に置くことは願ってもないことだった。以来、ヤマト政権は渡来人の技術と知識によって支配体制を整え、国としての土台を築くこととなる。 渡来人のなかでもよく知られるのが秦氏、西文氏(かわちのふみうじ)、東漢氏(やまとのあやうじ)の三氏だ。 秦氏は新羅からの移住氏族といわれ、京都市右京区太秦辺りを拠点に養蚕や機織り、酒造、金工の技術を発揮。 西文氏は、5世紀前後、応神天皇に百済から招かれた王仁(わに)を祖とする一族で、大阪の南東部にあたる河内に定着する。日本に文字をもたらし、『論語』『千字文』を伝えた。文筆能力に優れたことから朝廷の文書事務に携わり、外交でも活躍したという。 そして、大和国高市郡檜隈村(現在の明日香村檜前・ひのくま)、つまり飛鳥を拠点に先進技術や知識をもって朝廷に仕えたのが東漢氏だ。彼らは錦織(にしごり)、鞍作(くらつくり)、金作(かなつくり)の技術者をまとめ、製鉄、武器生産に取り組んだ。その氏祖となった人物が阿知使主(あちのおみ)だ。 応神天皇の頃に、子の都加使主(つかのおみ)とともに大勢の人夫を率いて、加耶から渡来したと考えられている。阿知使主を中心に、東漢氏という大きな渡来系集団へと発展していった。 ■蘇我氏から重用され、坂上田村麻呂も輩出した東漢氏一族 阿知使主のなごりが今も飛鳥に残されている。近鉄吉野線の飛鳥駅から南に10分ほどの場所にたたずむ於美阿志(おみあし)神社だ。この神社で祀られているのが阿知使主なのだ。境内には7世紀後半に建立された東漢氏の氏寺、檜隈寺の遺構も残されている。 (省略) 東漢氏の拠点となった飛鳥は蘇我氏の基盤でもあり、両者の関わりはしだいに深くなる。蘇我氏は東漢氏の技術を独占することで政治的に圧倒的な影響力をもつことができたのだ。 また、『元興寺縁起』の「塔露盤銘」には、飛鳥寺創建の際に東漢氏が建設を担ったことが記録されている。百済から造営の指導のためのスペシャリストが派遣され、飛鳥寺の伽藍は6世紀末に大方が完成した。このときに実際に造営に従事したのは、東漢氏が統轄した造寺集団だった。 さらに7世紀の初頭には飛鳥寺の本尊であり、飛鳥大仏と呼ばれる釈迦如来坐像を仏師の鞍作止利(くらつくりのとり)が完成させた。鞍作氏も東漢氏系の渡来氏族だ。 鞍作氏は馬具職人の集団である鞍作部として東漢氏の配下に置かれていたが、しだいに金属加工技術を生かし、仏師として頭角を現す。中国の北魏様式の流れをくみながら、洗練された鞍作止利による作風は止利様式と呼ばれ、今も高い評価を得ている。法隆寺金堂の本尊、金銅造釈迦三尊像も、彼の手によるものだ。 また、崇峻天皇5年(592)、崇峻天皇を暗殺した首謀者は蘇我馬子だが、直接手を下したわけではない。自身の側近でもあった、東漢駒(やまとのあやのこま)を刺客として差し向けている。 大化元年(645)の乙巳(いっし)の変によって蘇我氏が滅亡すると、東漢氏は中大兄皇子が主導する改新政府に仕え、壬申の乱では大海人皇子側に身を置く。 また、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で活躍した坂上刈田麻呂(かりたまろ)や、平安時代に征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂も、東漢氏の支族の1つである坂上氏の出身だ。 飛鳥の渡来人とその末裔は日本の歴史に大きな影響力を与えていった。続々と朝鮮半島から渡ってきた渡来人だが、その数は不明。弘仁5年(814)に編纂された『新撰姓氏録』には畿内に居住する1182の氏のうち、324氏が渡来系であると記録されている。9世紀の畿内の氏は3分の1が渡来系だったことになる。(以下ソース) 2026/10/27 12:00 引用元:…