シャーロック・ホームズがガス灯の光をたよりに歩き、ディケンズの小説が冒頭からすっぽりと街を覆う——「ロンドンの霧」は、長いあいだ物語の情景として愛されてきた。ところがあれは天気ではない。街じゅうの煙突から出た石炭の煙が溜まっただけの、黄色く濁った大気汚染である。そして1952年12月、その「情緒ある霧」は数日のあいだにロンドンで数千人の命を奪った。 ※注:当時のロンドンの霧は「えんどう豆スープのような霧(pea-soup fog)」と呼ばれていた。煤と硫黄分のせいで黄緑がかった色になり、スープのようにどろりと濃かったことからついた通称で、19世紀から使われている古い言葉である。 今日の知ってた? 🌫️ ヴィクトリア朝の小説に出てくる「ロンドンの霧」は自然現象ではなく、軟らかい瀝青炭を燃やして生じた工業スモッグだった。1952年12月に起きた「グレート・スモッグ」では視界が数メートルまで落ち、映画館は4列目からスクリーンが見えないという理由で閉鎖されたと伝えられる。犠牲者は当時の公式集計で約4,000人、のちの再分析では最大1万2,000人ほどとも推計されており、数字はいまも一つに定まっていない。 ※注:瀝青炭(れきせいたん)は、揮発分と硫黄分を多く含む軟らかい石炭のこと。火はつきやすいが煙と煤が大量に出る。英語では soft coal とも呼ばれる。 背景:あの霧は何でできていたのか ロンドンはもともと霧の出やすい土地である。テムズ川の河口に近い低い盆地に街が広がっているため、冷え込んだ朝には水蒸気が凝結して自然の霧が発生する。ここまでは、ただの気象現象にすぎない。 景色を一変させたのは石炭だった。産業革命以降、ロンドンでは工場も発電所も蒸気機関車も石炭を燃やし、それ以上に効いたのが各家庭の暖炉である。当時のイギリスの住宅は部屋ごとに暖炉を備えており、冬になれば何十万本という煙突が一斉に煙を吐いた。その煤と硫黄の粒子が自然の霧の水滴に取り込まれると、白い霧はたちまち黄色く濁った別物に変わる。息を吸えば喉が焼け、洗濯物は外に干せず、建物の石は数十年かけて真っ黒になっていった。 19世紀のロンドン市民は、これを「ロンドン・パティキュラー」と呼んでいた。「ロンドン名物」といった意味合いの言い回しで、ディケンズは『荒涼館』の中で登場人物にそのまま言わせている。この小説が世に出たのは1852年。奇しくもグレート・スモッグのちょうど100年前で、当時すでにロンドンの霧は「名物」として認識されるほど日常に食い込んでいたことになる。 つまり、英語圏の読者が霧のロンドンに感じてきた異国情緒の正体は、煙突の数だった。ホームズが辻馬車で霧の中へ消えていく場面も、ディケンズの描く灰色の街並みも、風景として読めば幻想的だが、成分として見れば公害の記録である。 もう少し詳しく 1952年12月5日、ロンドンの上に高気圧が居座った。風がぴたりと止み、地表付近の冷たい空気の上に暖かい空気の層が乗る「気温の逆転」が起きる。この上層が蓋の役割を果たし、街が吐き出した煙が上へ逃げられなくなった。ロンドンは自分の煙で満たされたドームの中に閉じ込められた形になり、以後5日間、そこから抜け出せなかった。 その冬が厳しい寒さだったことが、事態を最悪の方向に押した。寒ければ寒いほど家庭は暖炉に石炭をくべる。しかも当時ロンドンで多く出回っていたのは「ナッティ・スラック」と呼ばれる安価な粗悪炭だった。塊の石炭というより粒と粉の混ざったくずに近いもので、火持ちが悪いわりに煙だけはよく出る。戦後のイギリスは債務返済のため質のよい石炭を輸出に回していたとされ、国内向けにはこうした低品質の燃料が残った。おまけにナッティ・スラックは配給券なしで買えたため、寒さに震える市民は迷わずこれを選んだ。 スモッグの最中、ロンドンの空には毎日おびただしい量の汚染物質が吐き出されていた。イギリス気象庁の推計では、1日あたり煙の粒子が約1,000トン、二酸化硫黄が約370トン。そしてその二酸化硫黄が大気中で変化して、およそ800トンの硫酸となって漂ったとされる。人々は5日間、それを吸い続けた。 街の機能はほぼ止まった。地下を走る路線を除いて公共交通は動かせず、救急車は運行を取りやめ、体調を崩した人は自力で病院まで歩くしかなかった。劇場では舞台が客席から見えず、オペラの上演が第1幕で打ち切られた例が記録に残っている。映画館も同じ理由で閉まった。屋外だけでなく屋内にまで煙が入り込んでいたのである。家畜市場に集められていた牛が息を詰まらせて死んだという報告もある。 犠牲者の数に幅があるのは、線の引き方が難しいからである。当時の当局は、平年の同時期と比べて何人多く死んだかという「超過死亡」の考え方で約4,000人という数字を出した。しかし後年、統計を洗い直した研究では、スモッグが晴れたあと数か月にわたって死亡率が高いままだったことが指摘され、影響を受けた総数は1万人を超えるという推計が示されている。呼吸器の不調を訴えた人は10万人規模にのぼったとされ、亡くなったのは乳幼児と高齢者に偏っていた。 そして4年後、イギリスは1956年の大気浄化法にたどり着く。この法律の画期的だった点は、工場の煙突だけでなく一般家庭の暖炉まで規制の対象にしたことにある。指定された「煙規制区域」の中では、煙の出ない燃料しか燃やしてはいけない。国が個人の家の火のくべ方に口を出したわけで、当時としては相当に踏み込んだ判断だった。※ 大気浄化法(Clean Air Act)は1956年に成立し、1968年に強化された。 もっとも、空気がすぐに澄んだわけではない。1962年にも同種のスモッグが発生しており、ロンドンから石炭由来のスモッグが実質的に消えるまでには1970年代までかかっている。物語の中の霧が現実から消えるのに、20年近くを要したことになる。 海外の反応 1. 海外の名無しさん 「風情のある昔の霧」みたいに語られがちだけど、実際には人が死んでいる。うちの親も当時これの中を歩いて出かけさせられていて、「とにかく不快で、口の中まで煤の味がした」と言っていた。 2. 海外の名無しさん(>>1への返信) 80年代から90年代にかけても、ロンドンの空気はまだかなり悪かった記憶がある。それでも当時の比ではないんだろうな。今でも乾季のガーナあたりへ行くと、炭を焚く煙で街全体がずっと霞んでいて、近いものが体験できてしまう。 3. 海外の名無しさん 政府が家庭向けに安い低品質の石炭を勧めていたのも効いている。「ナッティ・スラック」という代物で、しかも配給券なしで買えた。その冬は身を切るような寒さだったから、みんな喜んで買ってどんどん燃やした。 4. 海外の名無しさん(>>3への返信) 「ナッティ・スラック」、今週いちばんイギリスらしい響きの単語だった。中身は塊の石炭というより、粒と粉の混ざったくずみたいなもので、火持ちが悪いぶん煙だけはよく出るという最悪の組み合わせ。 5. 海外の名無しさん 1952年のスモッグのとき、私はロンドンの子供だった。西ロンドンの叔母を訪ねた帰りが本当にひどくて、バスは運転手が前を見られなくなって止まり、乗り継いだ列車も運転士が「これ以上進めない」と言って打ち切り。最後は近所の生け垣と柵を手で触りながら家まで歩いた。まだ4歳だったきょうだいは、むせながらずっと泣いていた。 6. 海外の名無しさん(>>5への返信) 大学のときに教わった先生が、学生時代にこのスモッグで道を渡っている途中に迷子になったと話していた。渡り始めた側にも渡り切った側にもたどり着けず、車道の真ん中でしばらく方向が分からなくなったらしい。 7. 海外の名無しさん 細かい話だけど、霧そのものは自然現象で、問題を決定づけたのは気象条件のほうだった。高気圧が居座って風が止まり、上空に暖かい空気の層ができて蓋になる。街が自分の吐いた煙を吸い直すドームの中に閉じ込められた形になった。 8. 海外の名無しさん(>>7への返信) 同じ理屈で有名なのが南カリフォルニア。盆地の地形と車社会と強い日射しが揃うと、排ガスが日光で化学反応を起こして別種のスモッグになる。だからカリフォルニアは連邦の基準より先に独自の排ガス規制を作った。昔の車のカタログに「カリフォルニア仕様」と書いてあったのはそれ。 9. 海外の名無しさん 「大スモッグはひどくてねえ、映画館まで閉めたのよ」 「へえ。でもそんなに大変そうには聞こえないけど、おばあちゃん?」 「まあ1万2千人ほど亡くなったんだけどね。場の空気を悪くしたくないから」 10. 海外の名無しさん(>>9への返信) 数字だけ言われても正直ぴんと来ないから、この並べ方は的を射ていると思う。「映画館の4列目からスクリーンが見えない」と言われて初めて、どれだけ濃かったのかが目に浮かぶ。 11. 海外の名無しさん 死者数がいまだに一つに定まっていないところが、この出来事の性格をよく表している。当時の集計では4千人前後とされたのに、後年に統計を洗い直したら1万人を超える規模だったという推計が出てきた。誰までを「スモッグで死んだ人」と数えるのか、線を引くのが本当に難しい。 12. 海外の名無しさん(>>11への返信) それに加えて、10万人規模の人が呼吸器の不調を訴えている。亡くなったのは幼い子と高齢者に偏っていた。数の幅がどうであれ、街ひとつがまるごと肺をやられた出来事だったことは動かない。 13. 海外の名無しさん このとき亡くなった人の中に、タイタニックの二等航海士だったチャールズ・ライトラーがいる。沈没を生き延び、後年ダンケルクの撤退では自分のヨットで兵士を運んだ人だ。78歳で持病もあったから、スモッグだけが原因とは言い切れないけれど。 14. 海外の名無しさん(>>13への返信) 名前と経歴が一つ分かるだけで、急に実感が変わるのが不思議だ。何千人という数字はどこまでいっても数字でしかないけれど、「あの船から生き延びた人が、40年後にロンドンの空気で亡くなった」と言われると輪郭が出てくる。 15. 海外の名無しさん アイルランドも似たようなもので、80年代の終わりから90年代の初めまで空気の質はひどかった。石炭の使用を段階的に禁止してようやく改善している。ダブリンでは今でも歴史的建造物の煤を高圧洗浄する事業が続いていて、洗うと100年ぶりに本来の色が出てくる。 16. 海外の名無しさん(>>15への返信) ピッツバーグも2000年代の初めまで建物の黒い汚れを落とし続けていた。街全体が数十年ぶんの煤をかぶっていたわけで、剥がすほうにも同じくらい時間がかかるということなんだろう。 17. 海外の名無しさん 関連して面白い話がある。産業革命の前、イギリスには白っぽい色をした蛾がごく普通にいた。ところが汚染が始まると、数年から10年ほどの短い期間で黒い個体ばかりに入れ替わった。そして空気が綺麗になると、また白い個体が戻ってきている。 18. 海外の名無しさん(>>17への返信) それはロンドンではなくマンチェスターの話だね。オオシモフリエダシャクという蛾で、高校の生物の教科書に載っている定番の例。煤で黒くなった木の幹の上だと白い個体は鳥に見つかりやすい、というやつ。 19. 海外の名無しさん ドラマ『ザ・クラウン』の第1シーズンに、このスモッグを扱った回がある。街の機能が止まっていく様子と、政府がどう対応したのかが描かれていて、興味があるなら観る価値はあると思う。 20. 海外の名無しさん(>>19への返信) 最初の数話しか観ていないけど、あの回はよくできていた。ただ、視点役になっていたチャーチルの秘書が、実在した複数の女性を混ぜて作った架空の人物だと後で知って、少し肩透かしを食らった覚えがある。 21. 海外の名無しさん ヴィクトリア朝のロンドンは雰囲気で美化されがちだけど、そこに住んでいた大半の人にとっては、空気は汚いし治安も悪い場所だった。1858年には下水がテムズに流れ込んで街中が悪臭に包まれた「大悪臭」という事件も起きている。 22. 海外の名無しさん(>>21への返信) それを聞くと、あの時代の小説でやたらと「海辺の空気」や「転地療養」が万能薬のように扱われている理由がよく分かる。都会の空気が本当に体に悪かったのだから、都会から離れること自体が治療だったわけだ。 23. 海外の名無しさん カナダやアメリカのカフェで「ロンドン・フォッグ」を頼むと、アールグレイの茶葉で作ったミルクたっぷりのラテが出てくる。名前はロンドン由来だけど発祥はブリティッシュコロンビア州らしい。ついでに言うとレインコートのブランドにも同じ名前がある。本物のロンドン・フォッグだけが、飲み物でも上着でもなく吸い込むしかないものだった。 24. 海外の名無しさん 2006年にロンドンへ引っ越した最初の週、鼻をかんだら黒いものが出てきて驚いた記憶がある。今年ひさしぶりに戻ったら空気が本当に綺麗になっていた。1956年の大気浄化法から始まって、石炭火力の廃止や排ガス規制まで積み上げてきた結果だと思う。いまも石炭を焚いている街に行くと、あれが当たり前ではないことがよく分かる。 まとめ ロンドンの霧は気候ではなく、街そのものが石炭を燃やして作り出したものだった。1952年12月のグレート・スモッグでは映画館が閉まり、救急車が走れなくなり、数千人規模の死者が出ている。数字にいまも幅があるのは、どこまでを犠牲者と数えるかが定まらないためである。コメント欄には、当時を実際に覚えている人の体験談と、アイルランドやピッツバーグなど各地の同じような話が並んだ。日本にも四日市ぜんそくや光化学スモッグの記憶があり、校庭で目や喉を痛めた世代にとっては遠い国の昔話ではない。物語の背景として愛されてきた風景が、実は公害の記録として読み直せてしまう——その反転こそが、この話のいちばん面白いところだと思う。 元ソース: ヴィクトリア朝の小説に出てくる有名な「ロンドンの霧」は自然の天気ではなく、軟らかい瀝青炭を燃やして生じた有毒な工業スモッグだった。1952年12月のグレート・スモッグでは、映画館の4列目からスクリーンが見えなくなり閉鎖された The post 「4列目からスクリーンが見えない」映画館が閉まった1952年ロンドン、あの名物の霧の正体は…? appeared first on みんな知ってた?【海外の反応】.…