1934年、アメリカ・ノースダコタ州の知事が連邦裁判所で有罪となり、州の最高裁から「あなたはもう知事ではない」と告げられた。彼はそれを受け入れず、支持者26人とともに州の「独立宣言」に署名し、州全体に戒厳令を敷き、知事室に立てこもった。独立国は一晩で終わったのだが、話にはまだ続きがある。 ※注:アメリカの州知事は大統領の部下ではない。州はそれぞれ独自の憲法・議会・裁判所・軍(州兵)を持っていて、知事はその行政のトップにあたる。ただし連邦の法律は州の法律に優先し、連邦法に触れる犯罪は連邦の裁判所が裁く。この話は、その二つの系統が正面からぶつかったときに何が起きるか、という記録でもある。 今日の知ってた? 📏 1934年7月17日、ノースダコタ州知事ウィリアム・「ワイルド・ビル」・ランガーは、失職を命じられたその日の夜10時に州の「独立宣言」へ署名し、1時間後に州兵招集の命令を出して知事室に立てこもった。州兵の実務トップが命令に従わなかったため、翌朝には荷物をまとめて州議事堂を出ている。それでも1935年12月に無罪となり、1936年に知事へ返り咲き、1940年には連邦上院議員に当選した。 背景:大恐慌のノースダコタと「ワイルド・ビル」 1930年代前半のノースダコタは、アメリカ国内でも屈指の苦境にあった。人口のほとんどが農業で生計を立てている州で、主力である小麦の価格が生産費を下回るところまで落ち、そこへ大平原の干ばつが重なった。土が風で飛んでいくほどの乾燥が続き、農家は収入を失い、借金の返済が止まり、担保に入れていた農場が次々と競売にかけられていった。 そこへ1933年に知事として就任したのが、ウィリアム・ランガーである。1886年にノースダコタで生まれ、10代のうちに地元の大学の法学部を出て、その後ニューヨークのコロンビア大学へ進んだという経歴の持ち主だった。州の司法長官などを経て知事の座に就いたときには、すでに「ワイルド・ビル」という異名が定着している。型に収まらないやり方を指した呼び名だった。 ※注:ランガーが基盤としたノンパーティザン・リーグ(無党派同盟)は、1915年にノースダコタで生まれた農民の政治運動。共和党・民主党の予備選に自分たちの候補を送り込むという戦い方をした。この運動が作らせたのが、アメリカで唯一の州営銀行であるノースダコタ銀行や、州営の製粉所である。どちらも現在まで存続している。 就任したランガーがまずやったのは、農場の差し押さえを止めることだった。銀行や郡が滞納を理由に農場を取り上げることを州として認めない、と宣言し、実際に競売の会場へ州兵を送り込んで手続きを物理的に止めさせた。さらに1933年10月には、価格が上がるまで州から小麦を持ち出させないという禁輸措置に踏み切っている。こちらは「州をまたぐ商取引を州が妨害している」として違憲と判断され、3か月ほどで撤回に追い込まれた。 ※注:州兵=平時は各州の知事が指揮する軍事組織で、災害対応や治安維持に使われる。連邦政府が召集をかければ連邦軍の一部として動く、という二重の性格を持つ。知事が自分の政策を通すために州兵を出すという発想が出てくるのは、この仕組みがあるため。 もう少し詳しく 有罪判決の中身は、469ドル50セントだった。ランガーは州の職員に対して、給与の5%を自分の党の機関紙の購読料として納めるよう求めていた。当時の州政治では「役職を世話してもらった側が党に金を返す」という慣行がそれなりに通用していて、州の職員だけであれば州の中の問題で済んだ。ところが、この対象に道路部門の職員が含まれていて、彼らの給与は連邦政府の救済事業の資金から出ていた。連邦を騙し取った金額として起訴状に書かれたのが469ドル50セントである。1934年6月17日、陪審は3日間の評議のすえ有罪の評決を出し、判事は禁錮18か月と1万ドルの罰金を言い渡した。 そして1934年7月17日の夜。この日、州の最高裁判所が「重罪の有罪判決を受けた者は知事の職にとどまれない」と判断し、副知事のオーレ・H・オルソンを正当な知事だと宣言した。ランガーはこれを拒む。夜10時、彼と26人の支持者は、知事が戒厳令とともに「ノースダコタ州の独立宣言」を発したことをその場で見届けた、という文書に署名した。1時間後、彼は行政命令第10号を出し、州兵を招集して州全体に戒厳令を敷くと表明する。そのまま知事室に立てこもった。 ※注:一つの州がアメリカから独立できるかという問題は、1861年から65年の南北戦争で流血のすえに決着がついている。1934年の時点で、法的にも軍事的にも成立する余地はまったくなかった。それでもこの宣言が「無視できない出来事」になったのは、州兵という実力組織を知事が動かせる立場にあったためである。 独立国は、翌朝までもたなかった。州兵の実務トップである州兵総監のアール・サーレスが、知事はオルソンであるという州最高裁の判断に従うと表明したのである。命令書を出す権限があっても、その紙のとおりに動く人間がいなければ何も起きない。18日の朝、ランガーと側近は知事室を明け渡し、州議事堂の敷地を去った。昇格したオルソンは、戒厳令の命令を静かに取り消している。 ここからが本題かもしれない。1934年は知事選の年で、ランガーはすでに党の予備選を勝ち抜いていた——有罪判決からわずか10日後の投票で、しかも圧勝で。本人が出馬できなくなったため、妻のリディアが代わりに立った。結果は、民主党のトーマス・H・ムーディーが145,433票、リディア・ランガーが127,954票。得票率にして46.6%を、有罪判決を受けた知事の妻が集めたことになる。 ※注:予備選=本選挙に出す候補者を政党ごとに決める選挙。アメリカでは有権者が直接投票して選ぶ形が一般的で、事実上の人気投票として機能する。ランガーが有罪判決の直後にこれを勝ったという事実は、地元の空気をそのまま示している。 その勝ったムーディーも、長くは続かなかった。1935年1月に就任したものの、彼が1932年にミネソタ州の選挙で投票していたことが発覚する。ノースダコタでは知事に立候補するには選挙前5年間の州内居住が必要とされており、州最高裁は資格を満たしていないと判断した。就任から2か月足らずで失職し、副知事のウォルター・ウェルフォードが昇格した。ランガーが立てこもった夜から数えて7か月ほどのあいだに、この州は4人の知事を持ったことになる。 そしてランガーの有罪判決は、最終的に消えた。1935年に連邦の控訴裁判所が判決を破棄し、やり直しの裁判は1回目が評決不成立、同年12月の2回目で無罪となった。前科の消えたランガーは1936年の知事選に出て当選し、1937年から2期目を務めている。さらに1940年には連邦上院議員に当選した。もっとも、ここでもすんなりとはいかず、上院の委員会は彼の過去を理由に「品位を欠き議席にふさわしくない」として着席を認めないよう勧告している。本会議がその勧告を覆して彼を議員として認めたのは、1年以上あとのことだった。以後、彼は1959年に亡くなるまでの18年間、上院議員であり続けた。1945年の国連憲章の批准に反対票を投じた上院議員は2人しかいないが、そのうちの1人が彼である。 海外の反応 1. 海外の名無しさん 有罪判決を受ける、立てこもる、州の独立を宣言する、部下に見放されて退場する。ここまではまだ話としてわかる。そこから2年で普通に選挙に勝っているところが一番おかしい。しかも当時の有権者からすれば、そこまで突飛な選択ではなかったらしいのがさらに効いてくる。 2. 海外の名無しさん(>>1への返信) 理由ははっきりしていて、彼は差し押さえ寸前だった農場を実際に何百と守っている。州兵を競売の会場へ送り込んで手続きを止めるという、法の手順を完全に無視したやり方で。有権者から見れば「連邦政府と検察に潰されかけた、自分たちの側の男」だった。汚職の話をされても、それは遠い首都の言い分にしか聞こえなかったと思う。 3. 海外の名無しさん 詐欺の中身も書いておくと、州の職員に給与の5%を党の新聞の購読料として出させていた、という話。州の職員だけならその時代のよくある恩顧のやり方で終わっていた。ところが対象の中に、給料が連邦の救済資金から出ている職員が混じっていた。それで連邦を騙したことになった。 4. 海外の名無しさん(>>3への返信) 連邦が絡んだ瞬間に管轄が跳ね上がるやつだ。州の中だけで完結していれば「政治の慣行」で片づいていたものが、財布の出どころが違うというだけで連邦の重罪になる。しかも起訴状に書かれた金額が469ドル50セント。規模の話ではまったくないのが面白い。 5. 海外の名無しさん(>>4への返信) 469ドルで知事が禁錮18か月と罰金1万ドルなんだから、明らかに金額の問題じゃないよな。連邦としては「州の政治マシンに救済資金を吸わせない」という一罰百戒だったんだろう。当時は救済の予算が全米に流れ出した直後で、どこまで手を出せるかの線引きが必要だった時期でもある。 6. 海外の名無しさん 時系列を並べると笑ってしまう。州最高裁が失職を命じたその日の夜10時に26人で独立宣言に署名して、1時間後に州兵招集の命令を出して、翌朝には荷物をまとめて出ていっている。建国から滅亡まで一晩の独立国だ。 7. 海外の名無しさん 州兵の総監が「今の知事はオルソンさんです」と言った時点で終わっている。命令を出す紙はあっても、その紙のとおりに動く人がいなければ何も起きない。権力というのは肩書きではなく、誰が実際に言うことを聞くかで決まる、という教科書みたいな話だと思う。 8. 海外の名無しさん(>>7への返信) 本人も一晩で分かったんじゃないかな。1934年の時点で、一つの州が単独で独立できると本気で考えていた人はさすがにいないと思う。あれは裁判で争っている間の時間稼ぎと、支持者に向けた「俺は最後まで戦った」という見せ方だったんだろう。実際その見せ方は、2年後にきっちり回収されている。 9. 海外の名無しさん 有罪判決の10日後に予備選があって、そこで彼は圧勝している。この順番が全部を説明していると思う。裁判所が何と言おうと、地元の農民にとって彼は味方だった。 10. 海外の名無しさん(>>9への返信) そのあとの展開もすごくて、本人が出られなくなったので妻のリディアが代わりに立候補している。結果は46.6%で落選だけど、有罪判決を受けた知事の妻が半分近く取っているわけで、州の空気がそのまま数字になっている。 11. 海外の名無しさん 判決のその後を知らない人が多いと思うので補足しておく。1935年に控訴審が有罪を破棄して、やり直しの1回目は評決不成立、同じ年の12月の2回目で無罪になっている。つまり1936年に立候補した時点で、彼はもう前科者ではなかった。立てこもりよりも、この無罪のほうが再選には効いた気がする。 12. 海外の名無しさん 小麦の禁輸のほうも相当なことをやっている。価格が上がるまで州から小麦を一粒も出さないと宣言して、州兵に積み出しを止めさせた。当然のように「州をまたぐ商取引の妨害だ」として違憲とされて、3か月で終わっている。 13. 海外の名無しさん(>>12への返信) 一つの州が自前で価格カルテルをやろうとしたわけだから、そりゃ通らない。ただ効果がゼロだったかというと微妙で、「この知事は言うだけでなく本当にやる」という評判自体が政治的な資産になっている。負けた政策が支持を増やすというのは、たまにある現象だと思う。 ※注:州をまたぐ商取引(州際通商)を規制する権限は、アメリカの憲法で連邦議会に与えられている。州が単独でそこに手を出すと違憲になる、というのがこの禁輸措置が短命に終わった理由。 14. 海外の名無しさん 州営の銀行を持っている唯一の州がある、という話をどこかで聞いたことがあったけど、ここに繋がるのか。ランガーが基盤にしていた農民の政党が作らせたもので、今も州の学生ローンなどを扱っているらしい。100年前の農民運動の遺産が現役で動いているのはちょっとすごい。 15. 海外の名無しさん 差し押さえを止めた話、農民が救われたのは間違いないけど、その後がなかなかきつい。銀行が「この州では担保を取っても意味がない」と判断して、新しい融資を一切出さなくなった。連邦の救済制度が届くまでのあいだ、農場は手元に残ったのに種を買う金がない、という状態になったと言われている。 16. 海外の名無しさん(>>15への返信) それは今でも見る構図だな。目の前の一人を助ける手段が、翌年の全員の首を絞める。どちらが正しいと言い切れる問題ではないと思う。少なくとも、その冬に家を失わずに済んだ家族にとっては答えははっきりしている。 17. 海外の名無しさん 州の教育予算を削って、その金で小麦を高値で買い上げて価格を支える、ということもやっている。子供の学校と目の前の農場のどちらを取るか、という選択を実際に一人で決めてしまう人だった。評価が定まらないのも当然だと思う。 18. 海外の名無しさん この時期のアメリカの地方政治には、この手の人物がわりといる。ルイジアナ州のヒューイ・ロングもそうで、露骨に腐敗していて、同時に貧しい人向けの政策を本気で通していた。今に至るまで評価が真っ二つに割れたままだ。 19. 海外の名無しさん(>>18への返信) 同じルイジアナで思い出したのが1991年の知事選。汚職で有名だったエドウィン・エドワーズが、対立候補がクー・クラックス・クランの元指導者だったせいで勝ってしまった選挙。支持者のあいだで「不正直なほうに投票しよう」と書いたステッカーが本当に配られたらしい。 ※注:クー・クラックス・クラン=19世紀後半にアメリカ南部で生まれた白人至上主義の秘密結社。20世紀を通じて何度か勢力を伸縮させた。 20. 海外の名無しさん この人、上院議員になるときも一悶着あって、1940年に当選したのに、上院の委員会が過去を理由に「議席にふさわしくない」として着席を認めないよう勧告している。本会議がそれをひっくり返して席に着けたのは1年以上あとだった。ここでも最後は生き残っているのがこの人らしい。 21. 海外の名無しさん 州の独立を宣言した男が、そのあと18年間ワシントンで上院議員をやって在職中に亡くなる。1945年の国連憲章の批准で反対票を投じた上院議員は2人しかいないが、そのうちの1人が彼だという。とことん中央と噛み合わない人だったんだな。 22. 海外の名無しさん 教科書には載らないけど、こういう話のほうが当時の空気を伝えてくる。小麦の値段が生産費を下回って、干ばつで畑の土が風に飛んでいって、州の財政は破産寸前。そういう場所で選ばれた知事が何をやったかという記録として読むと、途中から笑えなくなってくる。 まとめ 1934年7月17日の夜に生まれて翌朝に消えた「独立国ノースダコタ」。きっかけは469ドル50セントの詐欺罪で、終わらせたのは戦車でも連邦軍でもなく、命令に従わなかった州兵総監一人の判断だった。命令を出す権限があっても、その紙のとおりに動く人がいなければ何も起きない——コメント欄でいちばん共感を集めていたのは、この一点だった。 もう一つ意見が割れたのが、彼をどう評価するかである。差し押さえの競売に州兵を送り込んで農場を守った知事は、同じ手つきで教育予算を削り、法の手続きを平気で飛ばした。目の前の一人を救う方法が翌年の全員を苦しめることもある、と冷静に指摘する声と、その冬に家を失わずに済んだ家族にとっては答えは決まっている、という声が並んだまま、どちらにも寄らずに終わっていったのが印象的だった。無罪になり、知事に返り咲き、上院議員として18年務めて在職のまま亡くなる。荒れた時代がそのまま一人の人物になったような経歴だと思う。 元ソース: 「1934年、有罪判決を受けたノースダコタ州知事が辞職を拒み、州の独立を宣言して知事室に立てこもった」(元スレッド) The post 「その夜10時、26人で州の独立宣言に署名した」辞職を命じられた知事が知事室に立てこもった一晩の話 appeared first on みんな知ってた?【海外の反応】.…