1982年、米国メイン州に住む10歳の女の子が、就任したばかりのソ連の最高指導者に手紙を書いた。「あなたは戦争に賛成の票を入れるのですか」。核戦争がいつ起きてもおかしくないと言われていた時代に、その手紙には本当に返事が来た。しかも便箋2枚を超える、驚くほど丁寧な返事だった。 ※注:ユーリ・アンドロポフ=1982年11月にブレジネフの後を継いだソ連共産党書記長。それ以前の15年間は、国家保安委員会(KGB)の議長を務めていた人物。 今日の知ってた? 📏 10歳のサマンサ・スミスがソ連書記長に出した手紙に、本人から直筆の返信が届いた。1983年夏、彼女は招待に応じて2週間ソ連を訪問し、「アメリカ最年少の親善大使」と呼ばれる存在になる。しかしその2年後、1985年8月25日、13歳のときに飛行機事故で亡くなった。 背景:核戦争が現実の話だった時代 1982年から83年にかけての米ソ関係は、冷戦期の中でも特に緊張が高い時期だった。中距離核ミサイルの配備をめぐって双方が譲らず、米国側は「悪の帝国」という言葉を公の場で使い、ソ連側は先制核使用を否定する宣言を出しながらも軍拡を止めなかった。テレビでは核戦争後の世界を描いた作品が繰り返し放送され、子供たちは学校で「その日」に備えた訓練を受けていた。 サマンサ・スミスは1972年生まれ、メイン州ホールトンの小さな町に住む少女だった。ニュース番組でアンドロポフの就任を知り、両親に「この人は戦争を始めるつもりなの」と尋ねた。母親が「それなら本人に聞いてみたら」と冗談まじりに答えたところ、彼女は本当に机に向かって手紙を書き始めた。 もう少し詳しく 返事はすぐには来なかった。手紙はソ連の党機関紙に抜粋が掲載されたものの、本人からの返信はない。そこでサマンサはワシントンのソ連大使館にもう一通送り、「私の手紙は届いたのに、なぜお返事をいただけないのですか」と尋ねた。返信が届いたのは1983年4月26日。書記長本人の名前で、彼女の二つの質問に順番に答える形の文面だった。 そして招待状が同封されていた。同年7月、サマンサは両親とともにモスクワ、レニングラード、そしてクリミア半島の国際児童キャンプ「アルテク」を巡った。滞在は2週間。世界中の報道陣がその一挙手一投足を追いかけた。アンドロポフ本人は当時すでに体調を崩していて、二人が直接会うことはなく、電話で言葉を交わすだけに終わっている。書記長はその翌年、1984年2月に亡くなった。 事故は帰国から2年後に起きた。1985年8月25日、テレビドラマの撮影を終えて父親とともに小型旅客機で自宅へ向かう途中、機体はメイン州オーバーン・ルイストン空港の滑走路手前に墜落した。乗客6人と乗員2人の全員が亡くなっている。サマンサは13歳だった。 海外の反応 1. 海外の名無しさん 手紙の全文を貼っておく。 「アンドロポフ様。私の名前はサマンサ・スミス、10歳です。新しいお仕事の就任おめでとうございます。私はロシアとアメリカが核戦争を始めてしまうのではないかと、ずっと心配しています。あなたは戦争に賛成の票を入れるのですか、それとも入れないのですか。もし入れないのなら、戦争を起こさないためにどうするつもりなのか教えてください。こちらの質問には答えなくても構いませんが、なぜ世界を、少なくとも私たちの国を征服したいのか知りたいです。神様がこの世界を作ったのは、私たちが一緒に平和に暮らすためで、争うためではありません。 敬具 サマンサ・スミス」 2. 海外の名無しさん(>>1への返信) 返事の方も相当なものだから、主要な部分を訳しておく。 「親愛なるサマンサへ。君の手紙を受け取りました。最近、君の国からも、世界の他の国々からも、同じような手紙がたくさん届いています。 手紙を読んで思ったのは、君が勇気があって正直な女の子だということです。君の同胞であるマーク・トウェインの有名な本に出てくる、トム・ソーヤーの友達のベッキーに似ています。あの本はわが国でも、すべての男の子と女の子に親しまれています。 君は、二つの国の間で核戦争が起きるのではないかと心配していると書き、それを防ぐために我々が何かをしているのかと尋ねました。それは、ものを考えるすべての人が発しうる問いの中で、最も重要なものです。だから真剣に、正直に答えます。 そうです、サマンサ。ソビエト連邦は、地上で戦争が起きないようにあらゆることをしようとしています。42年前、世界の支配をもくろんだナチス・ドイツがわが国を攻撃し、何千もの町と村を焼き、何百万もの男女と子供を殺しました。あの戦争で、我々はアメリカ合衆国と同盟を組んでいたのです。 アメリカにもわが国にも核兵器があります。一瞬で何百万人もの人を殺せる恐ろしい兵器です。しかし我々は、それが決して使われないことを望んでいます。 もしご両親が許してくれるなら、わが国に来てください。いちばん良いのはこの夏です。同じ年頃の子供たちと会い、海のそばの国際児童キャンプ、アルテクを訪ねてください。 手紙をありがとう。君の若い人生に、すべての良きことがありますように。 ユーリ・アンドロポフ」 3. 海外の名無しさん(>>2への返信) この返事だけを見れば、歴代のロシアの指導者の中でも人間味のある上位5人には入るんじゃないか。10歳の質問を子供扱いせずに、順番に答えているのがすごい。 4. 海外の名無しさん(>>3への返信) 一応言っておくと、アンドロポフは1967年から1982年まで国家保安委員会の議長だった人物だからね。無垢な子羊ではまったくない。とはいえ確かに「まともだった指導者」の短い一覧はあって、その大半がソ連末期の人たちになるのは事実だと思う。 5. 海外の名無しさん 気になって彼女の項目を全部読んできた。亡くなった後にロシアであれだけ丁重に讃えられていたのを知って、少し救われた気持ちになった。 6. 海外の名無しさん(>>5への返信) ソ連側の反応は本当にすさまじかった。新聞各紙に長い追悼記事が載り、彼女の顔を入れた記念切手が発行され、記念碑と彫像が作られ、通りや施設に名前がつけられ、山にも名前がつけられた。本が何冊も書かれ、アルテクでは追悼の行事が行われ、子供団体が彼女の名を掲げた。国を挙げて、という言葉が誇張にならない規模だよ。 7. 海外の名無しさん メイン州の人間なので、子供だったけど今でも覚えてる。あの飛行機が落ちたのは自分の家から数キロの場所だった。一人の女の子が社会に対して持てる影響の大きさを、今でもときどき考える。 8. 海外の名無しさん 彼女のことを覚えてる。同じ年の生まれだった。子供心にかっこいい子だと思っていた。終わり方があまりに悲しい。 9. 海外の名無しさん(>>8への返信) 自分も当時まったく同い年で、正直あこがれていた。だからあの訃報はかなりこたえた。学校で友達が誰も口をきかなかった日を覚えてる。 10. 海外の名無しさん 事故の原因については後からいろいろな憶測が流れていて、ソ連国内では不審死ではないかという見方が広く出回ったらしい。1985年に書かれた米中央情報局の報告書には「ソ連の報道機関に直接的な告発は出ていないが、一般市民から知識層まで、彼女がソ連への好意を広め続けないように口を封じられたのだと信じているようだ」と記されている。 11. 海外の名無しさん(>>10への返信) その手の話が出回るときは、数字が一人歩きしがちだから確認しておく。あの便に乗っていたのは乗客6人と乗員2人の計8人で、全員が亡くなっている。そして搭乗券を持っていたのに別の直行便に振り替えられて助かった人が2人いた。これが「乗らなかった人がいた」という話の元だと思う。 12. 海外の名無しさん(>>11への返信) 確認してから書くの、大事だよな。この手の話は一箇所ずれるだけで別の物語になってしまう。 13. 海外の名無しさん これ、情報機関が暗殺したってこと? 14. 海外の名無しさん(>>13への返信) 当時の小型旅客機は、そもそも普通によく落ちてたんだよ。悪天候の夜間に、計器に頼って短い滑走路へ降りる。今の基準からすると信じられないほど余裕のない運航をしていた。悲しい話ほど何かの意志を探したくなるけど、たいていは整備と天候と疲労の話に落ち着く。 15. 海外の名無しさん 10歳の子が、ほとんどの大人が一生かけてもできない外交をやってのけて、その2年後に世界の側が「やっぱりなし」と言った。理不尽にもほどがある。 16. 海外の名無しさん 待って、じゃあ『ゴールデン・ガールズ』のあの回はこれが元ネタだったのか。 17. 海外の名無しさん(>>16への返信) 自分も今それで頭が真っ白になってる。あの回、好きなんだよ。当時の視聴者は全員、元の出来事を知ったうえで観てたんだろうな。 ※注:『ゴールデン・ガールズ』=1985年から放送された米国の人気ホームコメディ。放送開始時期がちょうどこの出来事と重なっている。 18. 海外の名無しさん これで思い出したのが、1989年に韓国の大学生が北朝鮮に渡った話。世界青年学生祭典が平壌で開かれた年で、当時も今も、韓国から北へ直接行くのは違法。彼女は遠回りの経路を使ってたどり着いて、南北の双方で大騒ぎになった。 19. 海外の名無しさん(>>18への返信) 帰国したら12年の刑を言い渡されたって聞いたけど、本当?信じられない話だ。 20. 海外の名無しさん うちの祖父は当時クレムリンで運転手をしていて、主な仕事がアンドロポフの送り迎えだった。家ではほとんど何も話さない人だったけど、この件の話題が出たときだけ「あの子の手紙のことは、みんな知っていた」と言ったのを覚えてる。 21. 海外の名無しさん この話はベルリンの壁の巡回展示の一部にもなっていて、そこではもう少し詳しい経緯が紹介されている。彼女は勇敢だったと思うし、両親も興味深い人たちだと思う。同時に、ソ連側が彼女をかなり効果的な宣伝の道具として使ったのも事実だと思っている。両方を認めてよい話だと思う。 22. 海外の名無しさん 別の世界線では、彼女はあの手紙を書かず、そして今も生きている。そう考えると胸が詰まる。 まとめ 核戦争がいつ起きてもおかしくないと言われた時代に、10歳の子が「あなたは戦争に賛成の票を入れるのですか」と手書きで尋ね、その国の最高権力者が長い返事を書いた。しかもその文面は、質問を子供のものとして扱わず、順番に答えていく形になっている。国家保安委員会を15年率いた人物であることを考えると、この返信は不思議な位置に立っている。コメント欄でも「人間味のある指導者」と「無垢な子羊ではない」の両方が並び、どちらかに決めようとする人はほとんどいなかった。 彼女が亡くなったのは1985年8月25日。今週の同じ日で、あの事故から41年になる。事故の直後には不審死の見方も広まったが、コメント欄では当時の小型機の運航事情を挙げて冷静に戻す声のほうが強かった。宣伝に使われた面は確かにある、それでも一人の子供が持った影響は本物だった——そういう両論併記に落ち着いていくのが、この話らしいところだと思う。 元ソース: 「10歳の少女がソ連書記長に核戦争について手紙を書き、招待されて訪ソした」(元スレッド) The post 「あなたは戦争に賛成の票を入れるのですか」10歳がソ連書記長に出した手紙に、本当に返事が来た話 appeared first on みんな知ってた?【海外の反応】.…