1: 樽悶 ★ KavG/Tfr9 2026-08-09 21:03:48 戦時中、「生き神様」と称えられた特攻隊員たち。だが、その当人たちは自らをどう見ていたのか。昭和史研究の第一人者であり、特攻隊員に長年心を寄せてきた保阪正康氏が、海軍飛行予備学生の手記や遺族の回想録などをもとに隊員たちの本意を見据えた朝日文庫『「特攻」と日本人』から一部抜粋してお届けする。 (省略) ■「必ず巧く命中せねば申し訳ない」 特攻隊員たちは、本心では自らの運命をどのように捉えていたのだろうか。彼らは何を支えに散華していったのか。その本意を正確に見据えておく必要がある。 私は、その本意について一貫して関心をもち続けてきた。それをさぐろうと、『きけわだつみのこえ』や『はるかなる山河に(東大戦歿(せんぼつ)学生の手記)』、さらには海軍飛行予備学生の手記を始めとして多くの刊行物に目を通してきた。特攻隊員として訓練を命じられ、出撃命令の前に終戦となった特攻隊員にも手記を見せてもらってきた。特攻隊員ののこした未公開の手記や遺族によってわずかに配布された回想録などの入手にも努めてきた。 現在、私の手元にはそういう手記が何編かある。昭和二十三年から二十四年にかけて、東大学生自治会戦没学生手記編集委員会が集めた各大学出身者の遺稿や手記も何編かある。遺族たちののこした手記もわずかだが持っているのだが、それらのなかから初めに幾つかの稿や遺族の証言を紹介する。彼らの本心はどこにあったか、残酷な命令を下した国家に、個人はどう向きあったかを理解する一助にである。 (省略) 「俺の回りには十数人がゴロヽヽ寝てゐる。之が皆生神様(いきがみさま)と新聞で言はれてゐる連中だ。俺もその一人ださうだ。新聞なんて馬鹿なこ(と)を言ふもんだ。人間が命懸けで死なうとす(ママ)るのが新聞だ。報道班員だ、何だと言ふ連中こそ愧死(きし)すべきだ。新聞紙上を賑はす様な死に方は俺は真平御免だ。遊び半分で死ぬんぢやないんだからね。 俺は昔は新聞紙上で勇壮な記事を見て感激したが、今静思するにあれは驚くべき錯誤だね。黙つてニツコリ笑つて自己の本領を発揮して新聞記事に載らない人間が如何(いか)に多く、そしてそのやうな人等こそ本当の偉人だといふことを俺は知つてゐる。俺は新聞なんかに載せられて茶化されんのは厭(いや)だね。(略) はつきり言ふが俺は好きで死ぬんぢやない。何の心に残る所なく死ぬんぢやない。国の前途が心配でたまらない。俺の抱いてゐる爆弾は君等を守る爆弾だ。それを俺が実行しなくて誰がする」 (省略) ●上原良司 (1章でも紹介) 大正十一年九月二十七日長野県生まれ。慶應義塾大学経済学部に在学中に学徒出陣。昭和十八年十二月に松本第五十連隊に入隊、昭和二十年五月十一日、陸軍特別攻撃隊振武隊員として沖縄嘉手納湾 でアメリカ軍の機動部隊に突入戦死。陸軍大尉。二十二歳。 昭和二十年四月に特攻隊員となった上原の動きは、残されたわずかの日記から知ることができるが、五月一日に調布飛行場で訓練中の上原に妹の清子が面会している。清子は、かつて私に、自らの手帖を開いてその面会時の様子を書きとどめた頁を見せてくれた。 (省略) 「これがニューヨーク爆撃なんて言うなら喜んで行くがな。死んでも本望だ」 「実際だ。心残りはアメリカを一ぺんも見ずに死ぬことさ。いっそ沖縄なんか行かず東の方へ飛んで行くかな」 「アメリカへ行かぬまえに、おだぶつさ」 「向うの奴ら(保阪注・アメリカ軍)何と思うかな」 「ホラ今日も馬鹿共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」 七、八人の学徒出身の特攻隊員はそんな言を吐きながら気を休めていた、と清子は証言する。清子の手帖には彼らの独り言も書かれている。そこには、「ああァ、だまされちゃった。特操(特別操縦見習士官)なんて名ばかり良くてさ。今度生れる時はアメリカへ生れるぞ」との言も残されている。 出撃する前の彼らは、自らの時代に決して納得していない。その感情が、新聞が自分たちを神にしていると書かせ、特攻隊員で死ぬのではなく戦場の片隅で死ぬ仲間に思いを馳せさせ、特攻隊員はわざわざ自殺しに来た馬鹿共だと冗談を言わせているのである。この人間味あふれた会話は彼らの本音であろう。(以下ソース) 8/4(火) 7:30配信 ★1︰2026/08/09(日) 19:34:01.04…