
1: 七波羅探題 ★ 2026/04/05(日) 21:52:01 ID:m5YdV13b9 Yahoo!オリジナル記事 4/5(日) 21:00 後継者になれなかった信長の兄・織田信広は、なぜ謀反後も重用されたのか(歴ブロ) - エキスパート - Yahoo!ニュース『豊臣兄弟!』では織田兄弟の対立が描かれ、弟・信勝が柴田勝家に斬られる場面も放送されました。信長と信勝は同父母の兄弟でしたが、信長にはほかにも異母兄の存在がありました。今回は織田兄弟の中から信長の兄・Yahoo!ニュース 『豊臣兄弟!』では織田兄弟の対立が描かれ、弟・信勝が柴田勝家に斬られる場面も放送されました。 信長と信勝は同父母の兄弟でしたが、信長にはほかにも異母兄の存在がありました。 今回は織田兄弟の中から信長の兄・織田信広について見ていきます。 ■信長の兄でありながら、後継には立たなかった信広 生まれはハッキリしませんが、おそらく信長とは5、6歳ほど年上と言われています。 織田信広は父・信秀の西三河進出に従軍し、三河・安祥城を任されました。 しかし、今川の太原雪斎に攻められ生け捕りとなり、その後の松平竹千代(後の徳川家康)との人質交換によって織田家に戻っています。 信広は庶長子とされ、信長は嫡男として家督を継ぎました。 このため、信広は年長ではあっても、後継の中心には立たなかったとみられます。 しかし、安祥城を任されていたことから、信広は織田家の一員として重要な役割を担っていたとみられます。 信長の兄でありながら、家督継承では前面に立ちませんでしたが、それでも織田一門の中では一定の役割は持っていたようです。 この微妙な立場が、後に信長へ反旗を翻し、しかも再び信長の下で重用されていくという、複雑な人生につながっていったのでしょう。 ■信長に背いた信広は、なぜ処分されなかったのか 『信長公記』によれば、1556年(弘治2年)頃、信広が美濃の斎藤義龍と通じ、信長が出陣した隙に清洲城を奪おうと計画しました。 信長が城を空けたところで信広が清洲に入り、留守居役を討って城を奪い、そこへ義龍方が攻め込む手はずだったとされます。 しかし、この計画は信長に露見して信広は入城を拒まれ、義龍方も引き揚げたため失敗に終わりました。 本来、謀反は未遂であっても重罪です。 しかし、信長は信広を処分しませんでした。 なぜ許したのか、信長の心の中までは分かりません。 ただ、その後の信広が再び織田家の一員として行動し、京都で室町幕府との連絡役まで務めることを考えると、信長が信広を単なる裏切り者として切り捨てなかったのは確かです。 信長は身内に甘かったというより、使える一門衆(家臣)であれば再び役割を与え直す現実的な判断をしていたのかもしれません。 弟・信勝もまた一度許されていますが、再度謀反を企てたため最終的には斬られました。 もし、信勝の二度目の謀反が無かったら信広のように活躍した歴史があったかもしれません。 ■許された兄は、なぜ重用されたのか 信長に背いた信広は助命された後も閑職に追いやられたわけではありませんでした。 むしろ、織田家の一門衆として再び重用されています。 信長が上洛を進める中で信広は京に常駐し、室町幕府や公家との連絡役を務めました。 さらに1573年(天正元年)には、信長と対立していた足利義昭との和議交渉に、「信長の名代」として臨んだことが確認できます。 また、織田一族に連なる武将たちを年長者として、一門のまとめ役的な存在だったともいわれています。 このように単なる一武将ではなく、外交的な場にも出せる人材として信広は扱われていました。 かつて自分(信長)に背いた人物を幕府との交渉役に起用していることから、少なくとも信長が信広を「過去に裏切った者」として遠ざけ続けたわけではなかったと見ることはできます。 もちろん、「信長が兄だから深く情をかけていた」とは断定できず、おそらく信広自身が有能な人材だったからこその結果だと思います。 信長は後世の軍記物の影響で苛烈な人物として語られがちです。 しかし、実際には反逆した者を一律に切り捨てたわけではなく、信広のように再び信長に重用される人物もいました。 信長に背いた兄・信広は再び織田家の一員として戦場や外交の場に立ち、頼れる兄として織田家を支え続けました。 残念ながら信広は1574年(天正2年)の長島一向一揆で討ち氏にしましたが、信広の血筋は娘が丹羽長秀に嫁ぎ、長重へとつながっていきます。 そして、丹羽家は徳川幕府の大名として認められ、幕末まで存続しました。…