東京都西部の武蔵村山市を南北に走る都道が、「日産通り」と呼ばれた時代があった。由来は、日産自動車村山工場。2004年まで操業した。 東京ドーム30個分の広さの敷地で、1962年にプリンス自動車工業(66年に日産に吸収合併)が操業を始めて、約40年。最盛期は3千人以上の従業員が働き、スカイラインやローレルといった人気車種を送り出した。近くには完成車を運ぶための輸送会社が10社以上あり、下請け会社も点在していた。 毎朝、市境にある西武拝島線・武蔵砂川駅(東京都立川市)から、従業員たちが日産通りを数珠つなぎになって通勤した。通り沿いにはそばやラーメン、スナックなど飲食店だけでも60軒以上が立ち並び、夕方になると帰宅途中の従業員らでにぎわった。「スーパーマーケットクリハラ」では、酒とつまみが飛ぶように売れた。 「この商店街は、日産頼みだったんです」。そう語る川田弘さん(78)は50年前、工場正門近くに理容室「キングヘアー」を開いた。プリンス自動車の下請け工場で働いていた経験から縁を感じていた。 客を呼び込もうと、近くにあった日産の独身寮などにちらしを入れると、徐々に経営は軌道に乗った。休日は多い日で15人ほどの客が絶えず訪れ、はさみを動かし続けた。 50年以上、武蔵村山市に住む須田俊男さん(88)は、「市民のあこがれであり、誇りであり、経済の中心だった。武蔵村山には日産工場しかなかった」と話す。 工場閉鎖の発表後、町並みは変わっていった…