
1: 匿名 2026/02/06(金) 23:10:16.61 ID:7O7qpLuc9 >> 昭和の芸能界はハーフ歌手抜きに語れない?逆境の中で培った“日本人離れ”した才能 名曲とともに回顧 昭和歌謡、昭和ポップスにスポットライトを当てたラジオ番組『中将タカノリ・橋本菜津美の昭和卍パラダイス』(ラジオ関西)が、2月6日放送回で、昭和時代に活躍したハーフ歌手、ハーフタレントを特集。 日本の音楽シーン、芸能界の発展に大きく寄与した彼らの作品や生い立ちについて、番組パーソナリティー・中将タカノリさん(シンガーソングライター、音楽評論家)の解説のもと、同パーソナリティーの橋本菜津美さん(シンガーソングライター、インフルエンサー)とともに語り合いました。 番組で最初にオンエアされたのはジェリー藤尾さんの『遠くへ行きたい』(1962年)。 旅番組『遠くへ行きたい』(読売テレビ・日本テレビ系)のテーマ曲としても有名なこの曲ですが、歌ったジェリーさんは1960年代を代表するハーフ歌手でした。 ジェリーさんはNHKで英語アナウンサーをしていたお父さん、藤尾薫宏さんとイギリス国籍のお母さんの元に1940年に誕生。終戦後の1946年に上海から日本に移り住んだものの、母子は言葉の壁や外見のことで差別を受けます。 特にお母さんの心労は激しかったようで、ジェリーさんが中学1年の時にアルコール依存症で逝去。そのショックから非行に走ったジェリーさんですが、音楽と出会ったことで芸能界入りし、一躍スターとして活躍します。 2曲目は、青山ミチさんの『ミッチー音頭』(1963年)。 青山さんは、お父さんが在日米軍のアメリカ人で、お母さんが日本人。朝鮮戦争が1953年に終結するとお父さんは帰国してしまい、お母さんもバー経営で忙しかったため、おばあさんに育てられたそうです。 「今、ハーフといえば憧れの存在ですが、当時は敗戦の副産物のような暗いイメージ。青山さんのようにお父さんが帰国するケースも多く、みんな貧困や差別で苦労したそうです」と中将さん。橋本さんは時代によるハーフのイメージの変化に驚いていました。 その後、青山さんは中学1年の時に横浜のジャズ喫茶・テネシーで開催されたコンテストに入賞したことがきっかけで芸能界入りし、迫力ある歌声で「ミッチー」と呼ばれ人気者に。歌手として将来を嘱望されますが1966年以降、度重なる覚醒剤取締法違反で芸能界を去り、長年消息が不明に。2017年に亡くなっていたことがわかりました。 3曲目は、ゴールデン・ハーフの『黄色いサクランボ』(1970年)。 彼女たちは1969年にバラエティー番組『ドリフターズ大作戦』(日本テレビ)のマスコットガールとして結成。「全員ハーフ」という触れ込みでしたが、実は一人だけ純日本人でした。橋本さんは「ハーフの中に一人だけ日本人おったらすぐバレるやろ……と思ってジャケット写真を見ましたが全然わかりませんでした」と驚きの様子。 中将さんによると「終戦から年月がたち社会も豊かになったことで、この時代になってようやくハーフの暗いイメージが払しょくされ始めたと思う」とのこと。抜群のプロポーションと底抜けの明るさで、バラエティー番組や音楽シーンで活躍したゴールデン・ハーフはその変化に大きな役割を果たしていそうですね。 4曲目は、マギー・ミネンコさんの『燃えるブンブン』(1974年)。 マギーさんはお父さんがロシア系アメリカ人、お母さんが日本人。東京都台東区生まれでニューヨークの高校を卒業後、日本の芸能界入りしたという異色の経歴の持ち主でした。 和田アキ子さん、せんだみつおさんらが司会のバラエティー番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ)で活躍し「チチ揉め~」という過激なギャグが話題になりますが、2年ほどで引退。現在はアメリカで生活しておられるそうで、息子のクリス岡野さんが国際的なインフルエンサーとして活躍しています。 最後の1曲は、シーナ&ザ・ロケッツの『ユー・メイ・ドリーム』(1979年)。 サンハウス、シーナ&ザ・ロケッツのギタリスト、作曲家として活躍した鮎川誠さんも、お父さんがアメリカ軍人、お母さんが日本人というハーフでした。お父さんは鮎川さんが小さい頃に日本を離れてしまい、手紙のやり取りはあったものの、中学生の時に亡くなったそうです。鮎川さんは後年、お父さんが家に残していったフランク・シトラやビング・クロスビーのレコードが自身の音楽との出会いだったと語っています。 昭和にはこの他にも数多くのハーフ歌手や在日外国人のタレントが誕生し、芸能界、音楽シーンを盛り上げました。 続きはリンク先…