1: 樽悶 ★ aneRp/eZ9 2025-12-06 23:55:14 中国の史書「魏志倭人伝」に記された邪馬台国はどこか。江戸時代から続く論争をテーマにした古代史講座が福岡県飯塚市で開かれた。講師が持論の正当性を主張するのではなく、九州説、畿内説、東遷説それぞれの弱点や矛盾点を検証するユニークな試みだ。 魏志倭人伝には、朝鮮半島における中国の出先機関・帯方郡から邪馬台国に至るまでの行程が記されている。しかし、畿内説は福岡県周辺と推定されている「不弥国」以降の進路を南から東に読み替える必要がある。一方、九州説だと、移動にかかる日数と実際の距離が合わない地点があるなど、文献からの推測には限界がある。 講座では、佐賀県・吉野ヶ里遺跡の調査を手がけた佐賀女子短大の高島忠平名誉教授(考古学)、元奈良県立橿原考古学研究所の関川尚功氏、高橋徹・元大分県立歴史博物館長が登壇。考古学的知見から持論を展開した。 まず高橋氏が九州説を否定した。卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳が奈良県にあることや、前後して周辺に前方後円墳に先行する墳墓が密集して築かれたことを挙げ、「古墳文化は東高西低。九州説だと説明がつかない」とした。 これに対し、関川氏は畿内説に疑問を呈した。邪馬台国があった弥生時代の畿内の遺跡には、大陸系の遺物や半島系土器がほぼないと指摘。「畿内は当時、大陸との直接的なつながりが薄く、九州のように墓に鏡を副葬する風習も見られなかった。畿内の大型古墳は4世紀のもので、弥生時代とは明確に区別される。弥生時代の邪馬台国が大和で自生することはありえない」と述べた。 高島氏は、邪馬台国が九州から畿内に移ってヤマト政権に発展したとする「東遷説」はありえないとした。奈良盆地で見られるような弥生時代の大規模水田経営は、各地の有力集団の同盟的結合が不可欠で、そうした結合がヤマト王権の源流となったと指摘。一方、九州ではそうした強固な共同体の結合は見られないとして、「邪馬台国とヤマト王権は構造が異なり、歴史的連続性はない」と訴えた。(以下ソース) 12/6(土) 14:36配信…