
1: 名無しのがるび 2025/12/04(木) 22:27:48.03 ID:rRCJAopZ9 反抗の象徴から商業音楽へ 吉本隆明がロックの過渡期に果たした役割 朝日新聞記事 聞き手・河村能宏2025年12月3日 6時00分 1970年前後、ロックは最先端のサブカルチャーでした。若者にとって自己表現の手段であり、既成秩序への反抗の象徴でもありました。 しかし、ロックはやがてコマーシャリズムの波にのまれ、巨大産業を形成します。反抗の音楽が体制に取り込まれていく――。加速する商業主義に若者たちが戸惑う中で、その状況を肯定的に捉え、ロックジャーナリズムの世界で強い影響力を誇ったのが音楽雑誌「ロッキング・オン」(RO)でした。 なぜ「ロックの大衆化」を肯定できたのか――。「音楽雑誌と政治の季節:戦後日本の言論とサブカルチャーの形成過程」(青弓社、2024年)の著者で、群馬県立女子大学教授の山崎隆広さんは、RO発起人で7月に去した音楽評論家の渋谷陽一に影響を与えた思想家・吉本隆明から読み解きます。話を聞きました。(聞き手・河村能宏) ■「大衆の原像」が持つインパクト ――ロックを批評する営みが活発化するのは70年前後ですが、どういう時代状況だったのでしょうか ダンス音楽だったロックンロールは、60年代後半、ボブ・ディランらフォークの影響を受けて政治性を帯び、ビートルズを筆頭に実験的で高度な音楽を次々と生みました。ステージでは、ギターを燃やすジミ・ヘンドリックスのような激しい自己表現も生まれ、単なる娯楽を超えた音楽文化「ロック」に生まれ変わるのです。 音楽評論家の中村とうようは、この新しい潮流をアメリカの雑誌からヒントを得て「ニューミュージック」と名づけ、音楽批評誌「ニューミュージック・マガジン」(NMM、69年創刊)を創刊します。ロックを通じて時代を読み解こうとしたのです。 一方、そうしたプロの音楽批評に権威性を見いだし反発した若者もいました。当時20代前半だった渋谷陽一さんらが作った「ロッキング・オン」(72年創刊)です。誌面を読者投稿で構成し、アマチュアの音楽ファンたちのロックへの思いを発信する同人誌として出発しました。 1990年の記事では「金まみれ、欲望まみれだからロックは面白いのだ。だからこそ普遍的なのだ」とつづった=1981年撮影 ――ロックを通じて、あるものは時代や社会を、あるものはそこに生きる若者の内面を言語化しようとしたわけですね。ただ70年代以降、ロックは急速に商業化していきます ロック市場が巨大化し、お金を生むビジネスになっていくなかで、NMMはそうした流れに疑問や葛藤を抱えながら誌面を作りますが、70年代の後半頃からロック以外のレゲエや演歌や、ワールドミュージックといった世界の大衆音楽とそのルーツに意識的に向き合うようになっていき、80年1月号で誌名を「ミュージック・マガジン」(MM)へと変えました。 一方、ROは拡大するロックに真正面から向き合います。雑誌のあり方も、はじめは読者投稿で構成していた同人誌でしたが、やがて、投稿枠を縮小し、人気ミュージシャンの長行インタビューを中核に据え、商業路線を強化。読者層を大きく変え、急激に部数を拡大させていきます。 ――大衆化していくロックを受け入れ、より一般の読者獲得を目指したわけですね。葛藤はなかったのでしょうか 商業路線に理論上矛盾なく突き進むことができたのは、やはり渋谷が吉本隆明のフォロワーで、吉本の「コマーシャリズムや大衆を肯定する思想」に共鳴していたことも大きかったのではないでしょうか。 渋谷が高校時代を過ごした60年代は、吉本が強い影響力を持った時代です。その吉本は60年代半ばに「大衆の原像」という概念を提示します。 60年の安保闘争が終わり、高度成長期に突入する時代、吉本は「人びとが政治よりも日々の生活の充足に夢中になる」といった、大衆のイメージ(原像)を前提にした上で、思想を組み立てるべきだと考えます。それは、丸山真男らが掲げた「たとえ『虚妄』であってもそれに賭ける」といった戦後民主主義へのアンチテーゼでもありました。 (※以上、無料部分から引用。)…