1 名前:樽悶 ★:2025/08/23(土) 19:10:19.00 ID:Ln1D9oup9.net 戦時中、旧日本軍が占領したマレー半島で、人々の記憶に深く刻まれているのが「華僑の粛清」です。虐殺を指揮した日本兵の親族は、加害の歴史と向き合い続けています。 マレーシアのネグリセンビラン州。 虐殺事件の生存者、鄭来さん(90)。6歳の時、日本兵の銃剣で身体を貫かれ、その傷がいまも。 「(日本兵は)住民を数人の小さなグループに分けて連行し、殺害を始めました」(日本軍虐殺事件の生存者 鄭来さん) 1941年、イギリス領だったマレー半島に侵攻した日本軍は、2か月ほどでシンガポールを攻略しました。 一方で、中国との戦況は泥沼化。日本軍は、マレー半島から中国への経済援助を続けていた「華僑」と呼ばれる中国系住民を敵視し、大規模な粛清を命じたのです。 鄭来さんの家族5人が殺害されました。 「何の罪もないのに家族が殺されました。(日本兵は)人間の感情なんてなかった。どうしたらこんなにひどいことができるのですか」(日本軍虐殺事件の生存者 鄭来さん) 虐殺は各地で繰り返され、犠牲者はマレーシアで5万人を超えるとされています。別の村に建てられた慰霊碑にはある日本兵の名前が。 「欠けているところがあって一部文字が見えないんですが、『橋本少尉』という日本軍の部隊長が来たと記されています」(記者) 歩兵第11連隊に所属していた橋本忠少尉。虐殺を指揮したひとりとしてBC級戦犯になり、28歳で処刑されました。 広島県に住む甥の橋本和正さん(74)。処刑の理由について家族からは何も聞かされていませんでしたが、20年ほど前、戦争犯罪に関する本で叔父の名前を見つけ、戦争裁判の記録を取り寄せました。 そこには「女性や子どもを含むおよそ350人を殺害した」と書かれていました。 「ものすごくショックでしたね。日本軍の残虐性、非人道性が表れているなと」(橋本忠少尉の甥 橋本和正さん) 無差別に殺害し、村を焼き払ったとされる橋本少尉。死刑執行前に書いた遺書にはこう綴っていました。 「只、私は御国の為に取った行動です。破廉恥行為で無い」(橋本忠少尉の遺書) 「(周囲から)『叔父さんも戦争の被害者のひとりだったんですよね』というふうに言われると、やはりほっとするんだけど。でもやはり、そのままにしてちゃいかんなと」(橋本忠少尉の甥 橋本和正さん) 和正さんは、これまで2度マレーシアの虐殺現場などを訪問し、住民との対話を重ねてきました。“加害の歴史”に向き合い、現地の声に耳を傾けることを忘れてはいけないと話します。 「私の戦争責任として感じるのは『今後絶対日本が戦争を起こさない』そのための活動というのを続けていきたい」(橋本忠少尉の甥 橋本和正さん) 8/22(金) 12:11配信 引用元:…