1: 煮卵 ★ l97kiOK+9 2025-08-23 10:31:45 名古屋城天守の木造復元をめぐる議論が続いている。 歴史評論家の香原斗志さんは「バリアフリーは時代の要請であるし、障害者差別もあってはならない。一方で、名古屋城を『復元』するという意味を今一度考えるべきだ」という――。 ■名古屋城の復元天守工事がストップしている理由 2024年、名古屋城の入場者数は223万4976人で、世界デザイン博が開かれた平成元年(1989)の次に多い数字を記録した。だが、現在、名古屋城では天守に入ることができない。 観光の目玉は平成21年(2009)から復元工事が行われ、平成30年(2018)から公開されている本丸御殿で、昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造で外観復元された天守は、老朽化による耐震性不足などを理由に、平成30年(2018)5月から閉館されている。 もっとも、予定通りに進めば、河村たかし前名古屋市長が打ち上げた、木造による史実に忠実な復元が、令和4年(2022)には終了しているはずだったが、事業の進捗状況ははかばかしくない。 停滞した原因には、文化財としての保全が求められる石垣をどうあつかうか、という問題も絡んでいたが、最大の障害はバリアフリー対策をめぐる問題だった。 とくに2023年6月、市が主催した「名古屋城のバリアフリーに対する市民討論会」を機に、事業はさらに遅れることになった。車いすの男性がエレベーターを設置すべきだと主張したのに対し、とある参加者から問題となった発言が飛び出した。 「(車いすの人は)平等とわがままを一緒にするな。どこまで図々しいの、という話。がまんせいよ、という話なんですよ」。 これを受けて市は、整備基本計画を文化庁に提出するのを延期し、「差別発言」の問題に最優先で取り組むことになった。 以後、復元事業はストップしてしまっていたが、ようやくここにきて少し動きが見えてきた。 ■「復元」の意味を理解しているのか 8月8日、有識者や障害者福祉団体関係者らでつくる名古屋市障害者施策推進協議会の場で、名古屋城天守のバリアフリーをめぐる意見が出された。 すでに今年5月の時点で名古屋市は、差別発言を前提に事業を検証し、今後の方針を示す「総括」をまとめていた。そこでは、障害者団体と対話する姿勢や人権問題への配慮に欠けていた、という認識が示されていた。 この「総括」が前提だったからだろう、前述の協議会では、障害当事者が事業計画段階から参画することや、天守最上階までアクセスできるエレベーターの設置を求める意見などが出された。広沢一郎市長もここに出席して謝罪している。 河村前市長は小型昇降機の設置を打ち出しつつ、付けるのは2階までとしていたが、協議会では「そのことが障害者差別を助長した」という意見も出された。 障害者が5階まで上れない再建は許されない、という空気は色濃い。 実際、広沢市長も市議会で「できるかぎり上層階まで設置することにチャレンジする」と発言している。 いずれにせよ、こうして復元事業は再開しようとしている。現在、市は障害者団体のほか、高齢者団体などにも説明を重ねつつ、5階までの昇降機設置が構造的に可能かどうかを検証し、木造天守の史実性とバリアフリーの両立を考慮したうえで最終決定する、としている。 だが、このバリアフリー議論において、「復元とはなにか」という一番肝心な話が置き去りになっていると感じるのは、私だけだろうか。 ■史上最大規模でもっとも豪華だった天守 「復元」の意味を広辞苑で引くと「もと通りにすること」とある。字義のとおり、名古屋城天守を木造復元する意味は、まさに「もと通りにする」ことにある。 わざわざ「もと通りにする」のは、そうするだけの価値があるからである。 考えておきたいのは、昭和20年(1945)5月14日、B29爆撃機が落とした焼夷弾によって焼失した名古屋城天守は、数ある天守建築のなかでも特別に価値が高かった、ということだ。最初にその歴史的な意味を説明してみたい。 名古屋城は当時の国家事業として築かれた。徳川家康が九男義直の居城として築城を命じ、慶長15年(1610)に工事がはじまり、同17年(1612)に完成したのだが、工事は西国の大大名20家に請け負わされ、延べ20万人の人夫が動員された。 当時、大坂にはまだ豊臣秀頼が健在で、豊臣家を牽制する意味もあり、名古屋築城にはなおさら力が入った。 続きは↓ [PRESIDENT online] 8/23(土) 8:16…