1: 樽悶 ★ 8m5cV4nd9 2026-08-11 23:55:18 卑弥呼が治めた邪馬台国はどこにあったのか、ということと同じくらい、いま、注目を集めているキーワードがある。「空白の4世紀」だ。3世紀後半以降、日本列島では巨大な古墳が築かれ始め、やがてヤマト政権が登場する。しかし、その間の約100年間は中国の史書から日本に関する記録が途絶えてしまう。それが、「空白の4世紀」だ。 (省略) ■空白の4世紀を挟んで 3世紀中頃から近畿地方を中心に実力者の墓である古墳が築かれるようになり、時代は弥生時代から古墳時代へと移行していく。 中国の歴史書によると、卑弥呼死後の266年に倭の女王(壱与?)が魏(ぎ)を滅ぼした西晋(せいしん)に使者を送ったと記されている。それを最後に、中国の史書から古代日本の記録が途絶えてしまう。 5世紀に入ると、倭王「讃」(さん/応神、仁徳、履中天皇のいずれか)が宋に使者を派遣したとみられることから、この段階でヤマト政権が存在していたことは間違いないだろう。266年の西晋への使者の記録から、5世紀の宋への使者派遣まで、つまり4世紀に当たる時期の記録が残っていないところから、「空白の4世紀」と呼ばれているのだ。 ■邪馬台国とヤマト政権 「空白の4世紀」を挟んで、それ以前の邪馬台国とそれ以降の「ヤマト政権」につながりがあったかどうか定かではないが、その可能性はありうる。築造時期が卑弥呼の没年と重なる箸墓(はしはか)古墳に注目し、これが卑弥呼の墓であると考えると、邪馬台国は大和(奈良県)にあったことになる。加えて、箸墓古墳が、3世紀後半から5世紀の初めにかけて各地に普及しヤマト政権特有の形とされる前方後円墳であったことを踏まえると、邪馬台国とヤマト政権が継続している可能性が高まる。 一方で、九州北部にあった耶馬台国が東遷したことでヤマト政権が成立したとする説もある。やはり、「邪馬台国」と「ヤマト政権」の関係は謎に包まれているのである。 8/5(水) 7:00配信…