1: 樽悶 ★ wx6T8HGw9 2026-08-06 23:55:22 卑弥呼が治めた邪馬台国は「近畿地方」にあったのか、それとも「九州地方」にあったのか。江戸時代から続くこの論争は、古代史最大のミステリーとして常に注目されてきた。近年は考古学調査や科学的分析の進展によって新たな発見が相次ぐが、果たして邪馬台国論争に決着はついたのか。『だからわかる 新・古代史』(監修・伊藤賀一/編集・かみゆ歴史編集部)より一部編集して、邪馬台国の所在地をめぐる最新研究を紹介したい。 (省略) ■方位を取るなら九州説 『魏志』倭人伝には帯方(たいほう)郡(朝鮮半島)から邪馬台国へ向かうルートが書かれているのだが、記述どおりに進むと邪馬台国は九州の南方海上に位置してしまう。しかし史書では距離が誇張されることも多く、さらに同じ1里でもこの時代の1里は現代より短い可能性がある。 この短里説と方位から見ると九州になる、というのが九州説の根拠の一つだ。佐賀県から、集落の規模が大きい吉野ヶ里遺跡が発掘されたことも、九州説の根拠としてあげられる。 ■距離を取るなら近畿説 一方、近畿説は史書に書かれた方位が誤っている可能性を指摘する。15世紀に李氏朝鮮でつくられた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」では日本列島が南北に描かれている。この地理観を『魏志』倭人伝に当てはめれば、近畿に行き着くというのだ。 さらに奈良県の黒塚古墳から三角縁神獣鏡が出土し、同じく奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡から、築造時期が卑弥呼の没年と重なる「箸墓古墳」が発掘されたことも近畿説の後押しになった。 この2つの説以外にも、九州にあった邪馬台国が近畿に移ってヤマト政権になった説や神話とのつながりから出雲説など多くの説がある。邪馬台国をめぐる論争は、江戸時代、近畿説支持から九州説へと自説を変更した新井白石を皮切りに、近畿説をとる本居宣長、小林行雄、九州説をとる久米邦武、松本清張など、早々たる専門家や文化人の間で続けられてきた。 約300年たった現在でも邪馬台国の場所の解明には至っていないが、近年、多く提唱されるのは近畿説とされる。 8/4(火) 7:00配信…