1: 樽悶 ★ 2023/12/28(木) 23:58:36.37 ID:xmTs1OOT9 山内首藤氏の系図が載る「尊卑分脈」(左)=国立公文書館デジタルアーカイブより引用 ▽偶然読んだ新聞記事 2022年2月上旬、大阪府豊中市の山内研治さんは新聞に目を通していた。普段じっくり読むわけではないが、その時はなんとなく隅々まで。すると、ある記事が目にとまった。 仙台市に住む99歳の小野寺宏さんが、地域や祖先の歴史を調べ続けているという。小野寺さんは、父がまとめた祖先の膨大な記録を後世に残すため、史料の裏付けをして「中世の小野寺氏」(1200ページ)という大著にまとめていた。小野寺氏は中世の武士の家系だ。 「これはもしや…」 山内さんは直感した。この小野寺氏は自分の先祖である山内氏と関係あるのではないか。鳥取県出身の山内さんも、実は70歳の時から祖先の歴史を調べ始めていた。当時はちょうど平安時代にさしかかったあたりだ。 山内さんは新聞社に連絡を取り、記事を書いた記者を介して、小野寺さんにこんな手紙を出した。 「小野寺氏と山内氏はひょっとして昔の兄弟ですか」 ▽実の兄弟だったと確認 小野寺さんの答えは明快だった。 「小野寺氏の初代・小野寺義寛(おのでら・ぎかん)は、山内首藤(やまのうちすどう)氏の流れをくんでいます。山内首藤俊通(としみち)の弟とされています」 山内さんは感動で体が打ち震えた。実は、山内家に伝わる系図には、兄弟との表記があったものの、中世に作られた系図集の権威「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」にはその記載がなかったのだ。 山内さんによると、小野寺家に伝わる系図に兄弟との記載があり、義寛の推定生まれ年が1124年であることから、俊通と実の兄弟関係であることは間違いないと確信できた。 山内首藤氏とはどんな家系か。山内さん側の資料によると、美濃国(現在の岐阜県)を源流とする土豪だったとされ、藤原姓を名乗り、後に源氏の武士となった。その後、分家として近江(滋賀県)、伯耆(鳥取県)に分かれたという。 この兄弟は、中世の日本史に登場している。 「兄」である山内首藤俊通は源義朝の家臣だった。1159年の「平治の乱」で戦い、京都の四条河原で殺された。 「弟」の義寛も源氏の家来として活躍し、軍功を挙げて栃木県栃木市岩舟町小野寺に居を構えたという。義寛の息子道綱は鎌倉幕府を開いた源頼朝の御家人になったとされる。栃木市には「小野寺城跡」や道綱の墓所も残っている。 ▽先祖の一人は源頼朝を矢で射て死罪寸前 ちなみに、2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも山内首藤氏は登場している。山内首藤経俊(つねとし)であり、義寛のおいに当たるという。経俊の生母は頼朝の乳母だった。鎌倉時代の歴史を幕府側から記述した歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」にも、経俊の名前が登場する。 頼朝が打倒平氏を掲げ挙兵したのちの、1180年の石橋山の戦い。平家方として戦った経俊は自らの名を書いた矢で頼朝を射た。この時、頼朝は敗北するが、その後の戦いで勝利し、経俊は捕らえられた。死罪を言い渡されたが、母が助命を懇願。乳母から言われた頼朝は命までは取らなかった。記録には「忽(たちま)ち梟罪(きょうざい)を宥(なだ)めらる」(助命された)と残っている。 ▽定年後に通信制の史学科卒業 小野寺さんは戦後、仙台市役所や化学系の会社勤務を経て、定年を迎えた。もともと歴史好きだったが、退職前に大学の通信教育課程に入り直し、史学を専攻、6年かけて卒業した。そこから執筆を始め、先に挙げた祖先の本の他、かつて在籍した仙台陸軍幼年学校の資料集や、妻の祖父に当たる宮城県出身の元衆院副議長内ケ崎作三郎の生涯…など、約40年で15冊の本をまとめ上げた。現在も別の本を編集作業中という。 小野寺さんが調査、研究に情熱を傾けてきた系図。彼によると、時代や家によって記載が異なるものが多いことから歴史史料とは言えず、伝承なのだそうだ。「古い系図は正しいと証明することはできないが、間違いとも言えない。ただ、引用文献を整理し、新たな史料を探して示す必要がある。それが結構大変なんです。後世に残るものを作らなければならない。あとの時代に誰かの役に立ってくれれば、やったかいがあったというものです」(以下ソース) 2023.12.27 引用元: ・【歴史】平安時代に死に別れた武士の兄弟、900年ぶりに末裔がまさかの“再会” きっかけは新聞記事、記者「ドラマのような偶然」 [樽悶★]…