1: BFU ★ srErMs3R9 2025-08-16 21:37:24 太平洋戦争下、日本の新聞紙面は戦争を礼賛する記事で埋め尽くされた。 新聞・通信社などのメディアはなぜ報道の使命を放棄し、軍部と一体化したのか。ノートルダム清心女子大教授で京都大名誉教授の貴志俊彦氏(アジア史)に聞いた。 転換点の一つが1931年の満州事変だ。領土拡大の考えが日本社会に広がる中、軍部を批判した新聞は在郷軍人会などによる不買運動で打撃を受けた。購読部数を伸ばすため、ジャーナリズム本来の精神が崩れ始めた。 記事が過激、あるいは大衆迎合的なほど売れた。他社に先んじて劇的なスクープを得ようと、記者は軍部との関係性を密接にしていき、軍が暴走しても、歯止めをかけることなく支持した。 37年に日中戦争が始まると、記者も前線で従軍取材するようになった。太平洋戦争開戦後は軍の報道班員となり、記者は軍の指揮下に入るようになった。 政府・軍部はメディアを統制してプロパガンダを推し進め、戦争に勝てば豊かになるなどとの世論を醸成した。兵役逃れの横行や、労働や物資供出の協力が得られなくなることを恐れる一面もあっただろう。 言論の自由を縛る法令は戦前からあったが、日中戦争を経て太平洋戦争が始まると、検閲などの言論統制が極端に厳しくなった。戦況は大本営発表しか掲載できなくなり、44年10月の台湾沖航空戦では米艦船は1隻も沈んでいなかったのに、メディアは「空母11隻撃沈」などとした大本営発表のまま報じた。 検閲に加え、メディアを苦しめたのが用紙の配給制だ。喉元を押さえられ、業界全体として政府に従うしかすべがなくなった。 ただ、最も深刻なのはメディア側の自主検閲だろう。「発行停止が続けば、企業体として生き残れない」との危機感から、専門部署を設けたり、マニュアルを持ったりして検閲対策を練った。…