1 名前:七波羅探題 ★:2025/08/09(土) 23:10:07.88 ID:4+ao0a0D9.net 弁護士JP2025年08月09日 09:57 8月4日、埼玉県の大野元裕知事は外務省を訪れ、トルコとの相互査証(ビザ)免除協定の一時停止を求めて外務大臣宛ての要望書を提出。“外国人問題”が争点となった参院選の直後であるが、大野知事は今回の行動について「(参院選とは)全く関係ない」と述べている。 また、5日には参政党の神谷宗幣代表が、ドイツで移民排斥などを掲げる極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」のティノ・クルパラ共同党首と国会内で会談した。 日本社会における外国人や移民に対する目線は厳しくなっている。一方で、彼らが日々生きながら抱いている感情や思いに目を向けられることは少ない。 今回は、9月に『パレスチナ占領』(ちくま新書)の出版も予定されているジャーナリスト・記者の平野雄吾氏の著書『ルポ 入管――絶望の外国人収容施設』(2020年、ちくま新書)から、神奈川県厚木市で育ったイラン人青年や埼玉県川口市で育ったクルド人青年のケースを抜粋して紹介する。 来日から16年後、息子が生まれた後に摘発・収容… 「お前たちのせいで、こうなったんだろ」。2018年冬、神奈川県厚木市。寝室のベッドに座ったイラン人男性セイフォラ・ガセミ(50)は、長男ファルハッド(16)が泣きながら発した言葉に一瞬、我を失った。息子が父である自分に向かって「お前」と発したことは一度もなかった。 「もういいよ。きょうはもう自分の部屋で休んで」。そう促し、会話を打ち切ったが、平常心に戻るわけではなかった。自分に非があるのはわかる。けれど、自分にはこの状況を打破するすべがない。横に座る妻リリアナ(49)は「何とかなる」と口にするが、不安ばかりが膨れあがる。 セイフォラは1992年2月、イランの首都テヘランから単身、来日した。23歳だった。1980?88年のイラン・イラク戦争に従軍、テヘランに戻ったが仕事はなく、家族を支えようと海外での出稼ぎを決断する。9人兄弟の5番目。父はすでに死亡していた。 当時、日本政府とイラン政府は査証(ビザ)免除協定を結んでおり、イラン人の来日は容易だった。1989年に1万7050人だった来日イラン人は1990年には3万2125人、1991年には4万7976人に達した。 戦争後の経済的苦境にあえぐイラン人にとって、バブル景気に沸く日本の労働市場は魅力的に映る。多くが15日間の短期滞在ビザで来日、そのまま不法残留となり、人手不足が深刻化する建設現場や工場で働いた。急増したイラン人の不法就労を前に、日本政府は1992年4月、査証免除協定を打ち切る。 その影響は大きく、1993年の来日イラン人は一気に4389人に激減した。イラン人の大量来日はこの4年間に限られる一時的な現象で、セイフォラは、イラン人が自由に来日できる最後の時期にやって来た出稼ぎ労働者だった。 工事現場などの日雇いを経て1998年、友人のイラン人と一緒に神奈川県厚木市で自動車の板金塗装会社を立ち上げる。約500万円を投資し約80坪の土地に建物や設備を準備、事業が軌道に乗り始めると、2人で分けても毎月1人当たり50万?80万円の収入になった。 イランの家族には毎月10万?15万円を送金した。この頃知り合ったのが、同じく不法残留となっていた日系ボリビア三世のリリアナで、共に暮らし始めた。 2002年3月7日、神奈川県立厚木病院(現・厚木市立病院)で長男ファルハッドが生まれた。体重3800グラム。待望の男の子の誕生に胸を躍らせ出生届を提出すると、厚木市役所はリリアナとファルハッドの国民健康保険の加入を認め、出産育児一時金35万円まで支給した。もっとも2人の健康保険は2年後に打ち切られるのだが。 「当初、ビザ(在留資格)についてはあまり意識していませんでした。市役所で外国人登録ができたし、外国人登録証があると、警察に職務質問されても問題は起きません。ただ、息子の小学校入学前にビザの問題を解決したいと思い、行政書士に相談していました。入管当局に提出する妻の父の戸籍謄本とかを準備していたところ、摘発されてしまったんです」 セイフォラは悔しそうに振り返る。 2008年5月、厚木市の会社に踏み込んだ神奈川県警と東京入国管理局横浜支局(現・東京出入国在留管理局横浜市局、横浜市金沢区)に入管難民法違反(不法残留)容疑で摘発、収容された。 「イランに行ったら、今まで日本でしてきたことが無駄になる」 仮放免で解放されたが、東京入管は2009年1月、家族3人に退去強制令書を発付、ファルハッドは6歳にして仮放免の立場に追い込まれた。その後、再度収容されたこともあり、セイフォラはファルハッドに自分たちの状況を説明する。 ※以下出典先で 引用元:…