
転載元: 征夷大将軍 ★ 2026/09/09(水) 08:08:40.77 ID:Th6fJWtj9 Yahoo!オリジナル記事 9/10 大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、羽柴秀吉の前に徳川家康という強敵が立ちはだかる。秀吉と家康といえば、天下を争った「最大のライバル」という印象が強い。 しかし、小牧・長久手の戦いが始まる前までの両者の歩みを見ると、最初から互いを最大の敵とみなしていたわけではない。むしろ、本能寺の変後の政治情勢のなかで、それぞれ別の道を歩んだ2人が次第に衝突へ向かっていったのである。 本能寺の変後、秀吉は急速に台頭した 天正10年(1582)6月、本能寺の変によって織田信長が横死すると、織田政権の内部では後継をめぐる主導権争いが始まった。秀吉は同年6月、山崎の戦いで明智光秀を破り、一躍存在感を高めた。同月の清須会議では、信長の後継問題や領国の再配分が話し合われ、秀吉は織田家中における発言力を強めていった。 一方の家康は、本能寺の変の直後に畿内から三河へ戻り、その後、織田氏の旧領だった甲斐・信濃・上野をめぐって北条氏直らと争った。つまり、本能寺の変直後の秀吉と家康は、ただちに天下をめぐって争ったわけではない。秀吉は織田政権内部の主導権争いに進み、家康は東国で勢力を拡大することに力を注いだ。 秀吉と家康は別々の方面で勢力を伸ばした 天正10年(1582)10月、家康は北条氏と講和した。これによって甲斐と信濃の大部分を勢力下に置き、三河・遠江・駿河とあわせて、東海から甲信にまたがる有力大名へと成長した。他方、秀吉は織田家中の最大の競争相手だった柴田勝家との対立を深めていく。 天正11年(1583)4月、秀吉は賤ヶ岳の戦いで勝家を破った。勝家は越前北庄城で自害し、信長の妹で勝家の妻だったお市も命を絶った。秀吉は織田政権内における最大の対抗勢力を排除したのである。 同年には大坂城の築城にも着手した。秀吉の勢力は畿内から西国へ急速に広がり、もはや単なる織田家の有力家臣という立場を超えつつあった。この時点で秀吉と家康は、ともに信長死後の混乱を利用して勢力を大きく拡大していたが、両者が正面から衝突する状況にはまだ至っていなかった。 なぜ織田信雄が秀吉と対立したのか 両者の関係を大きく変えたのが、信長の次男・織田信雄だった。清須会議後、秀吉は信長の嫡孫である三法師を擁立しながら、織田家中で政治的主導権を握っていった。信雄も当初は秀吉と協調していたが、秀吉の勢力が拡大するにつれて両者の関係は悪化した。 天正11年(1583)9月頃には、秀吉が大坂城の築城に着手する一方、信雄との緊張も高まっていった。そして天正12年(1584)3月、信雄は秀吉に内通したと疑った家臣の津川義冬、岡田重孝、浅井長時を殺害した。この事件を契機として、秀吉と信雄の対立は決定的となったのである。 家康はなぜ信雄と手を結んだのか 信雄が頼ったのが家康だった。家康は信長と長年にわたって同盟関係にあり、信長の死後も織田家と無関係な存在ではなかった。また、秀吉が急速に勢力を拡大していくことは、東海・甲信に大勢力を築いた家康にとっても無視できない問題だった。 家康が信雄と結んだことで、対立の構図は大きく変わった。単なる秀吉と信雄の争いではなく、秀吉と家康という巨大勢力が向き合う状況が生まれたが、この段階でも家康が「秀吉から天下を奪おう」と考えていたと断定できない。少なくとも表向きには、家康は織田信雄を支援する立場で秀吉と対峙した。 「最強のライバル」は後から生まれたイメージ 天正12年(1584)3月、秀吉と家康はついに軍事衝突へ向かう。しかし、ここまでの経緯を見ると、両者が信長の死直後から天下を争う「宿命のライバル」だったわけではないことがわかる。 秀吉は織田政権内部の争いを勝ち抜き、畿内を中心に勢力を拡大した。家康は東国で北条氏と争いながら甲斐・信濃を獲得し、大大名へ成長した。別々の方面で勢力を伸ばした2人が、信雄と秀吉の対立をきっかけとして初めて正面から向き合ったのである。 まとめ 私たちはその後の歴史を知っているため、秀吉と家康を見ると、つい「天下を争った最大のライバル」と考えてしまう。しかし、天正12年(1584)3月の段階で見れば、2人の対決は必然だったというよりも、本能寺の変後の複雑な政治情勢が生み出した結果と考えるべきだろう。 このあと秀吉と家康は、いよいよ小牧・長久手の戦いで激突することになる。 渡邊大門 2: 名無しさん@恐縮です 2026/09/09(水) 08:11:26.20 ID:OPyyJGiN0 秀吉のライバルといったら明智光秀がうかぶよ…