
1: 樽悶 ★ QypI0nUV9 2026-08-01 20:33:20 戦時中の国民的英雄であり、戦後も人気があった海軍大将・山本五十六。旧軍人の証言を聞き、昭和史を研究してきた保阪正康さん、戸髙一成さん、大木毅さんが「同時代の軍人に山本はどう評価されていたか」について座談会で検証した――。 (省略) 【大木】海軍の航空畑には山本五十六―大西瀧治郎―源田実というライン、派閥というほど強烈ではないものの、ある系列がありました。戦時中は、それが航空の主流派となったようです。 柴田武雄(海・大佐)は、そこから距離があったので冷飯組で、やたらに現場に行かされた人です。昭和16(1941)年に第三航空隊副長兼飛行長でフィリピン、昭和18(1943)年に第二〇四航空隊司令でラバウル、昭和20(1945)年には第三一二航空隊司令で横須賀と、いつも最前線に送られていました。こういう人たちは、山本五十六のことをよく思っていません。 柴田さんが書いているのですが、雷撃訓練をすれば、魚雷はよく命中する。なぜなら、ぎりぎりまで接近して発射するからだ、と。しかし、実際の戦場では高角砲がバンバン撃ってくるのだから、とてもそんな近距離まで行くことはできない。もっと実戦に近づけた状況で訓練すべきで、魚雷発射も遠距離でやってみるべきだと、山本五十六に意見具申したそうです。ところが、山本は「そういう話は海軍の攻撃精神に反するから、二度と言うな」と怒りだしたそうです。 だから、海軍航空畑でもそういう人たちは「山本バンザイ」ではありません。それから、艦隊派といわれる人たちは、対米主戦派が多いので、戦後はあまり口にしなかったけれども、実は山本五十六のことが嫌いですね。 ■実は海軍内でも嫌われていた? 【戸髙】山本五十六を巡ってそのような対立構造はたしかに生まれていました。私が親しく接した中では、戦艦大和第三代艦長の松田千秋さんが、山本にいい印象を持っていませんでした。 山本五十六は海軍次官から連合艦隊司令長官になっていますから、軍令部には基盤がない。戦前に海軍を開戦の方向に指導していたのは軍令部で、中でも軍令部作戦課の人たちが組織した第一委員会が勢力を持っていました。この人たちは皆、旧来からの艦隊派でしたから、山本五十六の考え方とは合わなかった。 (省略) 【戸髙】山本五十六は、兵学校の同期で親友の堀悌吉が艦隊派に煙たがられて予備役に編入された瞬間、単純に軍令部が嫌いに、即ち艦隊派が嫌いになりました。山本の言動を見ていると、それが如実に表れています。 その後の山本は軍令部や艦隊派がまともなことを言っても反対しています。問答無用で軍令部が嫌なのです。近衛文麿ばりに「軍令部を対手とせず」と言うかのごとくです。たとえば、真珠湾攻撃も軍令部は反対でした。なぜなら日本の軍艦、ひいては海軍は、はるばるハワイまで出かけていって航空機で敵の基地を叩くという戦法を想定して作られてはいないからです。 当時の日本海軍が仮想敵国のアメリカと戦うに当たって想定していたのは、日本海海戦の時のように、近海で待ち受けて、はるばるやってきた敵艦隊と決戦するというものでした。それこそ明治以来延々と、何十年もそのための軍艦を造り、訓練をしてきたわけです。 ところが、真珠湾攻撃はそれまでの海軍のすべてをなげうって、付け焼き刃のような訓練をして行うしかない、誠に頼りない作戦でした。ですから、作戦に責任を持つ軍令部としては、当然了承できるわけがないのです。 ■なぜ真珠湾攻撃を実行したのか 【保阪】これまで想定したことがない作戦に大艦隊を使うことは、ありえないでしょうね。たしかに当時の現実を考慮に入れて見ると、山本五十六側の方が無理筋です。 【戸髙】あの時の山本五十六には、軍令部の言うことは絶対に聞きたくないという報復的な感情が潜在的にあるのです。だから、山本は一切退きませんでした。 真珠湾攻撃が必ずうまく行くとか、これからは航空主兵の時代だとか、そういった先見的な話ではなく、この一連の軍令部との攻防の中に横溢していたのは、山本の復讐心だったと思います。実際、真珠湾後のプランは連合艦隊にはないわけですから。先制攻撃の後のプランがないというのは、何を考えていたのだろうと思います。 【保阪】満洲事変の時の関東軍や、盧溝橋事件の時の陸軍にも、その後を見通した戦略はありませんでしたが、それと似ていますね。従来の山本五十六のイメージがかなり変わってきます。 8/1(土) 19:15配信…