
1: 七波羅探題 ★ s7b74ndB9 2026-05-22 07:27:13 東洋経済2026/05/22 06:45 少子化が進んだことで、大学キャンパスを移転・再編し、学部・学科の新設・再編を絡める動きが相次いでいる。そんななか、気になるのは「キャンパスがなくなった街」だ。 連載「街とキャンパス」。初回は青山学院大学の厚木キャンパス(1982年4月〜2003年3月)を取り上げる。おしゃれイメージの強い青学が、なぜ遠方の厚木にキャンパスを構えていたのか。 「こんな殺風景な場所に青学があったのか」 ここは神奈川県厚木市森の里青山1番1号。日産自動車の研究所「NATC(日産先進技術開発センター)」がある場所だ。周囲も企業の研究所や学校が中心の研究都市で、訪れた日が土曜日だったのもあるのか、車も人通りもほとんどなかった。 ■切り開かれたばかりのニュータウンにポツネンと佇んでいた青学 1982年4月に開学してから2003年3月に撤退するまでの21年間、ここには青山学院大学の厚木キャンパスがあった。教養課程を学ぶ全学部の1、2年生(理工学部は1年生のみ)、約6000人が通ったキャンパスだ。 森の里は、厚木市西部の丘陵部を切り開いて開発されたニュータウンである。開発前はほとんど建物はなく、大部分が森林でその合間に水田が広がっていた。 その森の里に最初に建ったのが、青学の厚木キャンパスだった。開学時の写真は圧巻だ。丹沢の山々を背景に、ただ唯一、青学がある。他には何もない。 開学して2年後、雑誌『平凡パンチ』(1984年 1/16号)のキャンパス紹介記事では「サ店がない雀荘がない、パチンコ屋も飲み屋もない……。(中略)あ、そうだ、本屋もなかったぞ」と、厚木キャンパス周辺に何もないことに驚いている。 「青学よ、おまえはなぜ、厚木くんだりの、寂しい枯木立の中にひとりポツネンと建っているのだ。おまえの売り物であったポップでライトな雰囲気はどこに行ってしまったのだ」というくだりは、当時、世間が厚木キャンパスに抱いた感想を端的に表しているのではないかと思う。 この周囲に“何もない”が故の問題が、開学後すぐから噴出する。主に食堂と交通の問題だ。 4月10日の入学式は青山キャンパスで行われたので問題なく終えられたが、「(前略)十二日の履修指導日から混乱が発生した。学生食堂は一〇〇〇席あったが、近くに飲食店がないことで学生が集中したこと、部活動の勧誘のために上級生が厚木に来訪したこと、券売機の故障などが重なり、食事を摂れない学生が生じた。講義は十五日から始まったが、その日の夕方は大雨に加え、バスの運行状況も悪かった。長蛇の列を作りながら雨に打たれた学生が大勢いた」(『青山学院一五〇年史 通史編�U』)と散々だ。 食堂に関しては、翌5月には急遽、座席数を300増やし、翌年3月頃までには3300席まで増築している。しかし、当初より3倍以上に増やしたものの、食堂の席不足問題は慢性的にあったという。周囲に何もないため、学生は授業の合間などは食堂にいるしかなかったのだ。その結果、席を確保しようとサークルや部活単位の席取りが横行していたという。 ■渋滞、混雑……、困難を極めたバス通学 交通の問題はさらに深刻だった。厚木キャンパスは、小田急の本厚木駅から神奈川中央交通のバスで25分ほどかかる。しかし、交通渋滞に巻き込まれると40〜50分、ひどい時は1時間かかることもあったという。開学当初はバスの本数も十分ではなかったようで、通学の不便さはひとしおだったようだ。 1982年11月18日の『読売新聞』によると「(前略)厚木周辺の下宿、間借り組が十三%で、あとは東京、横浜方面からの通学組」で、片道2時間以上かけて通学してくる学生も多かった。1限の授業に間に合わせるために友達の下宿先に前泊していたといった声もある。 ■何年にもわたって粘り強く交渉を重ねたバスの増発 開学前から、青学は何度も神奈中に足を運び、バスの増発を再三にわたってお願いしている。ただ、1年目は森の里には青学しかなく、宅地販売も数年先に予定されていたせいか、大幅な増便には対応してもらえなかったようだ。 しかし、何年にもわたって粘り強く交渉を重ね、「バス輸送については、正門内にバス発着所を新設し、二年目以降にバスの増発を図るなどの対策を早急に行った。さらに一九八七年一〇月から愛甲石田駅北口広場開設に伴い、同駅からのバスが運行できるようにするなど、さまざまな対策を順次打ち出していった」(『青山学院大学五十年史』)。 厚木キャンパスに通った青学生にとって「愛甲ダッシュ」は懐かしい言葉だ。愛甲石田駅からのバスは所要時間が15分ほどで渋滞も少なく、本厚木駅からのバスと比べて早く着くと、利用する学生が多かった。 ※以下出典先で…