
1: 仮面ウニダー ★ 2026/05/05(火) 06:56:41.96 ID:qCW7MJ2C 百済金銅大香炉=国立扶余博物館ウェブサイトより//ハンギョレ新聞社 ー前略ー 美術史学者で国立中央博物館館長のユ・ホンジュン氏は、この展示館の開館を記念した講演で、百済、そして我々の美感について 『儉而不陋 華而不侈』、すなわち質素でありながら粗末ではなく、華やかでありながら贅沢ではないという金富軾の言葉を引用して 説明した。『三国史記』の百済本紀で、温祚王が新たに建てた宮殿を描写したこの文は、文字通り解釈すれば質素な支出に比べて なかなか格好良く作られたという意味だが、恐らく節度があり過剰にならずに格調を高めたという意味で引用されたようだ。 しかし、どう解釈しようとも、この表現は百済金銅大香爐には似合わない。あえてこの不一致を説明するなら、これまで 韓国国内の学界で発掘された百済の遺物が極めて希少であることに理由がある。新羅とは異なり、百済の古墳は盗掘しやすい構造 だったため、遺物と呼べるものはほとんど残っておらず、定林寺の五層石塔に見られる比例と節制された趣、岩壁に刻まれた西山の 摩崖三尊仏像の澄んだ微笑みと繊細な彫刻技術などを思い起こさせる表現である。 百済の美術は、韓国よりも日本にはるかに多く残っている。1929年にドイツ語で『朝鮮美術史』を出版したドイツの宣教師 アンドレアス・エカルトは、百済の建築は朝鮮ではなく日本に残っていると記した。また、米国コロンビア大学で初めて日本美術史の 博士号を取得し、日本と韓国で活動していたジョン・カーター・コベル博士は、日本が誇る飛鳥文化の90%以上が韓国、特に百済の 影響を受けていると主張した。第三者と言える西洋人の目には、日本にある遺物が百済のものに見えたのであれば、当然それを 参考にして百済の美術を推定する必要があった。しかし、日帝支配下で韓国美術史が初めて記述されたため、日本の優れた文化遺産を 植民地朝鮮のものとみなす立場はすべて排除された。 1978年から1986年まで韓国に滞在したコベル博士は、法隆寺に所蔵されている日本が誇る多数の遺物の大部分が百済の影響下にある と考えた。例えば、名前に『百済』が入っている百済(くだら、古代日本で百済を指す言葉)観音(かんのん)が『日本だけに 自生するクスノキで作られたため日本産である』という主張に対し、韓国南部にもクスノキは自生していることを確認し、 保存装飾などの類似性を根拠に百済のものであることを明らかにした。 また、法隆寺の夢殿にある救世観音も百済の技術だとコベル博士は主張した。19世紀末に日本の古代寺院の所蔵品を調査した アーネスト・フェノロサが、500年ぶりにこの仏像を開いて「なるほど、韓国のものだ」と言ったという事実は、当時の彼の 秘書であり、後に日本を代表する美学者となった岡倉天心がその日の日記に記したことが根拠となった。 (その後、1997年に韓国外語大学のホン・ユンギ教授は、百済の威徳王が父王である聖王を称えて救世観音を制作したという事実が、 日本の歴史書『聖徳太子伝』や『書芸抄』、『扶桑略記』などに記録されていることを明らかにした。) これに加えて、コベル博士は 法隆寺の玉虫厨子や金堂の天蓋などがすべて百済で作られ、贈り物として送られたものであり、法隆寺金堂の金銅釈迦三尊仏は 『止利(トリ)』という名の百済系の渡来人が制作したなど、ほとんどの遺物が百済で作られたか、少なくとも百済人の影響下で 作られたものであることが明らかにされている。 ー後略ー 全文はソースから 登録:2026-05-04 20:58…