1: 七波羅探題 ★ 2026/04/13(月) 05:39:59.25 ID:WyEh0zwJ9 Yahoo!オリジナル記事 4/13 5:00 戦国史の名場面として知られる「金ヶ崎退き口」。織田信長が浅井長政の裏切りによって絶体絶命の危機に陥ったこの撤退戦は、後に「秀吉の大手柄」として語られることが多い。しかし、本当に信長を救ったのは羽柴秀吉ただ一人だったのだろうか。 当時の史料を丹念に読み解くと、明智光秀の存在を無視できない事実が浮かび上がってくる。さらに、同時代の記録には、秀吉単独説とは異なる内容も確認できる。今回は、「金ヶ崎退き口」の実像について、複数の史料をもとに検証してみたい。 浅井長政の裏切り――信長、最大級の危機へ 元亀元年(1570)4月、織田勢は若狭方面から越前へ侵攻し、朝倉氏の領国へ攻め込んだ。その際、秀吉も命を受けて出陣した。織田軍は敦賀郡に進出し、手筒山城(福井県敦賀市)を落とし、さらに金ヶ崎城・疋田城の攻略にも成功した。軍勢は順調に進撃し、朝倉氏の本拠・一乗谷(福井市)へ迫ろうとしていた。 ところが、その矢先である。同盟者であった浅井長政の裏切りが判明した。信長は妹・お市を長政に嫁がせていたのだから、この報せが与えた衝撃は計り知れないものがあった。越前の奥深くまで進軍していた織田軍は、瞬く間に敵中へ孤立する危険にさらされたのである。 「金ヶ崎退き口」――命がけの大撤退 同年4月30日、信長は明智光秀と秀吉を金ヶ崎城に残し、自身は朽木越を経て琵琶湖西岸ルートから、命からがら京都へ撤退した。この危機的状況における撤退戦が、いわゆる「金ヶ崎退き口」である。織田信長の伝記『信長公記』によると、信長は当初、長政の裏切りを信じることができなかったという。 しかし、各地から謀反の報告が相次いだため、金ヶ崎城(福井県敦賀市)に羽柴秀吉を残し、土地勘のある近江の朽木氏の支援を受けつつ、朽木越を通って京都へ帰還したと記されている。この記述が、後に「秀吉が殿(しんがり)を務めた」という説の有力な根拠となった。 「私を残してください」――秀吉の申し出 別の史料である『当代記』によれば、長政の離反を知った信長は、まず長政を討つべきかどうかを検討し、誰を金ヶ崎城に残すかが議論となったという。その際、秀吉は自ら「私を残してください」と申し出たとされる。信長はその申し出を喜び、秀吉を殿として残したと伝えられている。 この逸話は、秀吉の忠義と勇気を象徴するものとして広く知られている。また、『寛永諸家系図伝』では、蜂須賀正勝、木村常陸介、生駒親正、前野長泰、加藤光泰の5人を殿とする記述がみえる。ただし、これらの武将は殿そのものというより、殿の部隊に加わっていたと解するのが妥当であろう。 実は光秀もいた――一次史料が示す「3人の殿」 ところが、ここで注目すべき史料がある。元亀元年(1570)5月4日付の一色藤長書状(『武家雲箋』)である。この書状によれば、金ヶ崎城に残ったのは、秀吉・明智光秀・池田勝正の3人であったという。この書状は、出来事から間もない時期に作成された史料であり、その史料的価値は高い。 したがって、「秀吉単独説」ではなく、複数の武将が殿を担ったと理解する方が、史料の性質から見て妥当であろう。すなわち、「金ヶ崎退き口」は、秀吉一人の活躍によって成し遂げられたものではなかった可能性が高いのである。 約2000人の犠牲――想像以上に過酷だった撤退戦 『多聞院日記』によると、この撤退は決して容易なものではなかった。信長軍は、約2000もの兵を失ったと伝えられている。当初、織田軍は圧倒的な勢いで越前へ侵攻していた。それにもかかわらず、これほどの損害を出したという事実は、朝倉軍の反撃がいかに激しかったかを物語っている。 もし、このとき信長が討たれていれば、日本の歴史は大きく変わっていた可能性が高い。 信長を救ったのは誰だったのか 「金ヶ崎退き口」は、戦国史上でも屈指の危機として知られている。その功績は、しばしば秀吉一人の手柄として語られてきた。しかし、一次史料を丁寧に検討すると、そこには明智光秀や池田勝正といった武将の存在が確かに確認できる。 つまり、この撤退戦は一人の英雄によってではなく、複数の家臣の働きによって成功したと考えるべきだろう。秀吉や光秀ら有能な家臣の働きがあったからこそ、信長は九死に一生を得ることができたのである。 主要参考文献 拙著『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書、2019年)など。 渡邊大門 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。 引用元: ・秀吉だけではなかった?「金ヶ崎退き口」で信長を救った真の功労者とは? [七波羅探題★]…