1: 匿名 2026/02/21(土) 18:23:04 ID:uQkCq84K0.net 「誰でもない」を生きること - 晶文社スクラップブック海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責 […]晶文社スクラップブック 「無責任の体系」とは? 誰にでも責任があるが故に誰もが決定的な責任主体ではない。 この状態を丸山眞男は、「無責任の体系」と呼んだ。 たとえば、一九二三(大正一二)年末、社会主義思想をもっていた青年が皇太子(のちの昭和天皇)を狙撃した虎ノ門事件が起こる。 この事件の後始末として、内閣は辞職し、警視総監や警務部長も懲戒免官された。 また、衆議院議員だった犯人の父親、犯人の卒業した小学校の校長までもが辞職するに至った。 冷静に考えてみれば、警視総監や校長が犯行を事前に防げるはずもないのだから、このような処分は不当であるようにみえる。 けれども、「國體」や「天皇制」という、実体の掴めない支配の空気(支配者なき支配)は、まるで空気感染させるように責任を伝播させ――当日の警官の配置に問題があったのでは? 犯人の教育に問題があったのでは?――、その限定ラインを見失った結果、責任を「無限責任」に変質させてしまう。…