1 名前:ばーど ★:2024/03/01(金) 11:42:45.57 ID:Gf+/2M5t.net 今から130年前に日清戦争(1894年)が、120年前に日露戦争(1904年)が朝鮮半島で繰り広げられた。京都大学の山室信一名誉教授は、「連鎖」という観点を通じて、日本と世界、アジアが関係を結ぶ方式と意味について研究してきた。山室教授は『日露戦争の世紀』でも特有の連鎖という視点で、どうして日本がロシアと戦うことになったのかという歴史的な背景について、立体的に探っている。山室教授は、開港後に日本がどのような国際体制または状況のもとに置かれたのか、どのように対処したため、日清戦争を経て日露戦争、さらには太平洋戦争に突入することになったのかについて、世界史的な見解で眺望する。 1855年に江戸幕府とロシア帝国は和親条約を結ぶ。条約締結のために訪問したロシアの特派大使プチャーチンが乗船した軍艦のディアナ号が東海近海で事故により沈没すると、日本はロシアと協力してその代わりとしてヘダ号を建造する。この船舶は日本が作った最初の洋式帆船だった。日露国交樹立150周年を記念する行事で、プーチンはこの事件が両国の長きにわたる友好関係を証明すると述べた。しかし両国は、和親条約のわずか半世紀後に戦争を行った。 アマゾンの蝶々の羽ばたきが米国のテキサスでハリケーンの原因になるように、1891年にロシアがフランスから借款を得て建設を始めたシベリア横断鉄道は、日本に強い恐怖をもたらした。当時世界一の強力な陸軍を保有していたロシアが、英国の制海権の影響を受けない陸路を利用してモスクワからウラジオストクまで移動できるという事実は、日本はもちろん、東アジアさらには国際秩序にも大きな変動と衝撃をもたらしうる事件だった。日本は、シベリア横断鉄道が完工する前に、ロシアとの一戦を繰り広げることを計画し、綿密に準備した。 1905年、すべての予想を覆して日本がロシアに勝利し、アジア各国の植民地解放運動勢力は、日本の勝利をともに祝った。しかし戦後、米国と日本が結んだ桂・タフト協定と日英同盟が象徴するように、日本は西欧と互いの植民地利権を保障する代わりに、アジアの民族独立運動勢力を圧迫するもう一つの帝国主義国家になった。一時は日本の勝利を称賛したインドのネルーも同様に「一握りの侵略帝国主義集団にもう一つの国を付け加えたに過ぎない」と批判した。日本はアジアで、朝鮮だけでなくインド、ベトナム、中国、フィリピンの敵になった。それから40年が流れた1945年8月、日本はロシアと朝鮮半島でふたたび激突した。 山室教授は、自ら軍国主義の道に向けて進んだ日本の対応と変化について、鋭い批判を加え、これを通じて反省を促す。しかし、これらの反省や省察とは関係なく、私たちの立場からみると、日清戦争から日露戦争、太平洋戦争、そして朝鮮戦争にいたる4回の戦争のうち、3回は日本が起こし、残りの1回の戦争も日本がその原因の提供者だった。不幸にもその4回の戦争で、私たちは常に被害者だった。世界情勢が揺れ動いている近頃、私たちは自らに問わなければならない。どうしてこの4回の戦争を避けることができなかったのか。今の私たちは、これから差し迫ってくるかもしれない危機に、十分に備えているのか。 当時の朝鮮のエリートは国際関係に暗く、既得権に安住して変化を恐れた。高宗皇帝は初めは清に依託して外勢を引き込み、その次はロシア、最後には米国に頼った。しかし、ただの一度も民衆と手を取り合うことはなかった。 チョン・ソンウォン|「黄海文化」編集長 ハンギョレ 2024-03-01 08:48 修正:2024-03-01 10:00 引用元:…