1 名前:仮面ウニダー ★:2023/12/12(火) 13:39:54.65 ID:UiTbkBGf.net ノ・ヒョンソクの時事文化財_拉致された陶工の神話を探る(1) ー前略ー しかし、こうした流れに対して、学界の専門家の間からは最近、懸念の声が出ている。 沈壽官さんの家系をはじめとする拉致された陶工とその子孫の歴史的なルーツ、活動の経緯、作品の意味などについて、 客観的な事実が明確に究明されていないだけでなく、かなりの内容が誇張されたり加工されているという疑問まで提起されているのだ。 ハンギョレは、陶磁史学界の権威である高麗大学文化遺産融合学部のパン・ビョンソン教授のチームと、 7~8月に日本の九州一帯の朝鮮人陶工関連の遺跡と遺物を現地調査した。 これをもとに、拉致された陶工の神話に関する論議と真実を扱うコラムを2回に分けて掲載する。 「沈壽官先生の先祖は朝鮮で陶器を作っていた職人だったのでしょうか。それとも白磁を作っていた職人だったのでしょうか」 「日本に来た私の先祖の1代目の職人(沈当吉)は陶磁器を焼いた人ではないと考えています。陶磁器も土器もどちらも作っていなかったようです」 全く予想できなかった返事が返ってきた。7月29日、九州の鹿児島県みやま市にある陶芸家の沈壽官さんの 窯の作業場の会議室で開かれた沈さんとの対談の場は、パン・ビョンソン教授の調査団のメンバーを当惑させ疑問を持たせた。 ならば沈さんの先祖の沈当吉は陶工として連れて来られたわけではないということなのか。沈さんは話を続けた。 「土器や陶磁器を作った人たちは姓もない賎民でした。先祖の沈当吉には姓があり、幼い頃にはチャンという名前もあったそうです。 400年前の朝鮮では姓を持つ人は一部だったと思います。 当時鹿児島を支配していた島津一族の軍が釜山(プサン)で捕らえて連れてきた捕虜をキンカイ、つまり『金海』と呼んでいました。 人の名前の代わりに釜山近郊の金海(キムヘ)の地名で呼んでいましたが、後にこれが彼らの姓になりました。 私たちの先祖は初代は陶工ではなかったと私は考えています。焼き物(陶磁器)はここに来てからするようになったようです。 陶工が幼名を持っているなんてありえませんから」 彼の発言は、日本国内の朝鮮人拉致陶工の本貫と現地への到着の経緯、作業活動の性格について、両国の学界とメディアで もう少し綿密かつ深層的な事実の探査が必要だということを示唆している。 パン・ビョンソン教授は「ほんの数年前でさえ、沈さんは自身の先祖の起源や族譜(家系図)などについて問われると、 分からないから韓国で調べてほしいという返事をしていた。沈さんの発言が変わった」と述べた。 何よりも最近の沈さんの活動で目を引くのは、先祖のルーツを訪ねたことだ。 昨年5月、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の就任式に招待された際、青松の沈氏の宗親たちに会い、 金浦に先祖の沈当吉の父親の沈友仁(シム・ウイン)と祖父の墓地があるという話を伝え聞き、 その年の7月に礼服を着て墓前に行き、法事を行い子孫であることを告げたのだ。 捕らえられた陶工の子孫であることを力説してきた沈氏が、一族の本貫が青松だと明らかにしたことと、 先祖が南原など朝鮮で活動した経歴について言及していた内容は、一族の口伝と陶工の沈当吉が拉致された 朝鮮の本来の居住地を南原とした著名な作家の司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』以外には明確な根拠は見いだせない。 壬辰倭乱当時に鹿児島の支配勢力だった島津藩の軍隊が全羅道順天(スンチョン)や南原などの地に出兵し、 80人あまりの陶工を連行したという記録があり、沈当吉が拉致されたことはほぼ間違いないと思われる。 しかし、本貫が青松で、南原で先祖が活動し、金浦に先祖の墓があることを示す朝鮮時代や日本の江戸時代の 客観的かつ明確な記録と物証は存在しない。 ー後略ー 全文はソースから 登録:2023-12-12 07:03 修正:2023-12-12 09:45 引用元:…