全てのレス元スレ 2:誕生日なので成長後ネタです:2017/09/13(水) 03:40:36.37 :yuXQtsfF0 硫黄の匂いに鼻をくすぐられると、温泉街に来た実感が湧く。 視界の端で佇む総檜の旅館は風景にしっとり溶け込んでいて、歴史ある建物の風格というものを漂わせていた。 十代の頃から仕事上外泊の経験は多い方だったけど、今回ほど趣深い宿を借りるのは初めてかもしれない。 赤らんだ紅葉と侘び寂びが効いた玄関が形作る光景は和国情緒に溢れていて、心の洗濯には最適の環境だ。 そして、リラックスした状況下でこそ創作が――例えば作詞が――捗るのは定説。 最高の贅沢を味わいながら無敵の歌詞を創り出し、アタシなり依頼してくれたアイドルなりを通じて発信されるのが楽しみだ。 聞いてくれた子供たちが笑顔になる瞬間を思うと、もう居ても立ってもいられない。 反射的に内ポケットのノートを取りそうと手を伸ばし――太くがっしりした腕に掴まれた。 ミュージシャンと作詞家の仕事を忘れられないアタシを咎めたのは、旅館を紹介してくれたプロデューサーさん。 苦々しい表情をして、今日ぐらいはくつろぐべきだと諭してきた。 まぁ確かに、ようやく取れた長期休暇だし、何よりせっかくの新婚旅行。 何時でも公に恥じない自分であろうとしてきたが、今ぐらいは仕事を忘れるべきかもしれない。 納得してノートを仕舞いつつ、彼と共にここへ訪れた感慨に耽った。 アタシ、旧姓南条光は、新人時代より面倒を見てくれていたプロデューサーさんと、この度籍を入れることにした。 出会いは中学生の頃。ヒーローショーを観劇してたある日、彼に「アイドルの舞台で戦わないか」とスカウトされたのだ。 出会った頃は黒ずくめのスーツ姿が不審で、誘拐犯か何かかと身構えたものだが。 憧れの特撮ヒーローの主題歌を歌える可能性に気付いたのを切っ掛けに、アタシは人前で歌う道に足を踏み入れた。 かくして仕事に挑戦し、パートナーに支えられ、ときに励まされてるうちに名字が変わっちゃったのだから、今から思うと不思議なものだ。 目の前の事態に必死だった頃の自分に「芸能界での相棒が、四クールどころじゃない一生の相棒になるんだぞ」なんて言ったところで、きっとピンとこないだろう。 ……努力を尽くしたが、結局背が150センチを越えられなかったことなんて、全力で拒絶されるだろうし。 当時のアタシはアイドルなのに、女子らしさだの恋愛だの、浮ついたことなんて歯牙にもかけていなかった。 小さな子供に夢と希望を歌うヒーローアイドルという趣旨で働くのが楽しすぎて、それ以外をおざなりにしていたんだ。 仕事が楽しいのは、結婚を契機にミュージシャンに転向した今でも変わらない。 ホビーアニメの主題歌の作詞を担当したり、LIVEに参加したり、声のお仕事にも挑戦してみたり、生活は非常に満ち足りている。 ……そう、夢中になると視野が狭まる悪癖を正すこともなく、アイドル時代よりも充実した活動をしていたのがまずかった。 せっかく二人同じ家で過ごすようになったのに、新婚旅行すら行ってなかったのだ。 オフを一致させられても、お互いそれなりに責任というものがあるから、スマホが一鳴きしたらオフは返上するしかない。 このままでは夫婦らしく過ごす前に、年金を気にする時期が来る――慌てて計画を立て、お互い周囲に根回しをした。 高校生の頃からアパレル経営をしてたアイドル時代からの同僚に知恵を借りて職場を説得し、今日ようやくここに到着した。 納豆のように粘り強い交渉の甲斐あり、期間は破格の二週間。 ここでしっかり体を休ませ、夫婦の仲を深め、会えなかった期間の埋め合わせをしないと。 使命感に似た情熱を燃やしつつ入館すると、三名の女将さんたちが膝を突いて出迎えてくれた。 宿の手続きを済ませ説明を受けて、それから部屋に案内された。 敷地内の離れにあるその部屋は格式高く、この旅館にはこういう建物が幾つかあるらしい。 一棟につき一組の宿泊客が利用する豪勢な仕組みは、家族水入らずの時間を提供する為に徹底されている。 サービス心は館内用の着物にまで行き届いていて、吸い込まれるような着心地がまるで真心を皮膚で味わうよう。 まだ休みの初日なのに圧倒されて、お湯に入る前に腑抜けそうだ――とそこまで思って、交通機関を乗り継ぎ荷物を運んできたことによる汗が気になってきた。…