1 名前::2022/12/03(土) 20:24:12.66 ID:ZosVcnxz0●.net BE:245653759-2BP(2000) 「5世紀前半 伽耶系、ヤマト第2王朝『河内王朝』建てた」[目覚める伽耶史] [目覚める伽耶史] 6.日本3王朝交替説 ・高句麗の南征に打撃 伽耶流民 ・列島渡って新たな王朝を建設 ・日本最大の前方後円墳築造 ・鉄器など技術革新時代開いて ・その後、百済系第3王朝として交代 伽耶史を語るのに、なぜ日本の3王朝交替説なのか。400年、高句麗の南征で金官伽耶が壊滅に近い打撃を受け、そのエリート層と流民の大きな流れが日本列島に渡った。彼らが3王朝交替説とつながっているというのだ。 要するに、伽耶史と関連した時、日本3王朝交替説は「日王の韓半島出身説」と関連があるということであり、伽耶系が日王になったという強力な主張がそれだ。それだけでなく、 伽耶系を継いで後に百済系も日王になったという。 韓半島と日本列島を合わせた二大軸での「高句麗-新羅」の2国同盟より、「百済-伽耶-倭」の3国同盟は非常に緊密に互いに作用した。結局、後者の同盟は伽耶系と百済系日王の登場につながったということだ。 3王朝のうち、第2王朝は伽耶系王朝であり、第3王朝は百済系王朝だったという鮮明な主張がある。 まず「3王朝交替説」は、日本で第2次大戦後の古代史研究の最大学説に挙げられる。日王が一つの血統で降りてきたという 「万世一系」を覆し、互いに異なる血統の3系王朝が交替したという大胆な主張だ。最初に主張が提起された後、相当な波紋が起きたが、その後、大いに納得する学説になった。 まず、「3王朝交替説」の根拠は、712年に編纂された日本の<古事記>に登場するヤマト政権の1~33代天皇のうち18名は仮想人物であり、15名だけが実在したというものだ。 実在した15名の系譜を見ると、3系王朝に分類できるということだ。だから、単一ヤマト政権の歴史的実状は第1~3次ヤマト政権に分かれるという声だ。 第1王朝のスジン(崇神)王朝(10~14代)、第2王朝のニントク(仁徳)王朝(16~25代)、第3王朝のケイタイ(継体)王朝(26~33代)がそれだ。現在の日王は第3王朝の継体王朝の後孫だ。 この中で問題的である王朝は第2王朝だ。韓半島南部から渡った伽耶系あるいは騎馬民族系が九州を手に入れた後、5世紀前半に奈良、京都、大阪地方を征服し、河内地方に王朝を開いたということだ。第2王朝を「河内王朝」とも言う。 チェ・インホは歴史小説<第4の帝国>で、小説的虚構にとどまらない非常に強い歴史推理を出した。彼の推理によると、100年間ほど続いた河内王朝は伽耶系王朝だというのだ。 伽耶系王朝の礎石を築いたのは15代日王のオウジン(應神)で、彼は大韓海峡を渡った「伽耶版モーセ」と称された。應神は7年間東征伐に乗り出し、彼を継ぐ16代仁徳が金官伽耶壊滅以降である約30年後の433年、 大阪の平原に河内王朝を開いたというのだ。5世紀前半に築造された應神王陵と仁徳王陵は6kmほど離れて大阪平原の同じ緯度上にある。仁徳王陵は長さ486mで、日本最大の前方後円墳だ。 釜山日報(韓国語) 引用元:…