
1: ネギうどん ★ m+P+X/lt9 2026-07-15 10:53:40 〈「だったら、俺も落としてください」近鉄のエース・野茂英雄が首脳陣に激怒した日…鈴木啓示監督と“完全決裂”の決定打となった「朝帰り事件」〉 から続く 野茂英雄のメジャー挑戦は、現在でこそ「日本野球界に革命を起こした偉業」と称賛されるが、1995年の表明当時は「わがまま」「無謀」と凄まじいバッシングを浴びていた。四面楚歌の状況下で、野茂はいかにしてメジャーへの扉をこじ開けたのか。 歴史的事件の生々しい裏側に迫る喜瀬雅則氏の新刊『 革命前夜 追憶の近鉄バファローズ1994 』(文藝春秋)より、孤立無援のエースが逆手にとった「ルールの盲点」と、知られざる極秘交渉のリアルをひもとく。(全3回の2回目/ ) ◆◆◆ 「『残ってほしい』とは言われましたが…」 1995年1月9日。 近鉄との契約更改交渉が最終的に決裂した野茂は、自らの夢でもあった「メジャー挑戦」を正式表明した。 「プロに入ったときから、大リーグでやってみたい夢を持っていました。FA権が取れるかどうかも分からないし、取れたとしても30歳を超えてしまう。自分の中で今、挑戦したい、そういう気持ちになりました。最初は複数年契約、代理人交渉を認めてもらおうという気持ちでしたが、時間を考えて、大リーグに行こう、挑戦しようと。球団からは『残ってほしい』とは言われましたが『意志が固いのなら』と送り出してくれるということです」 円満退団を強調し、近鉄への感謝も述べた野茂だったが、互いの主張が真っ向から対立した交渉の内容は、実にシビアなものだったという。 FA権取得まで、当時の野茂には1軍登録9年、通算1305日が必要だった。右肩痛でシーズン後半を棒に振った1994年がプロ5年目の26歳だったから、FA権取得まで残り4年半、つまり5シーズンが最低でも必要となり、その時なら31歳。故障による戦線離脱の期間が長引きでもすれば、さらにずれ込むことも容易に予測できる。 「任意引退同意書」という“縛り” だから野茂は、リスクヘッジの身分保障として「複数年契約」を要求した。それでも球団側はあくまで「野球協約にはない制度」と拒否。着地点が全く見えない、平行線の続いた都合4度の交渉の中で、野茂は球団側から出された「任意引退同意書」にサインしたという。 それは交渉決裂、退団という最悪の流れになっても、野茂の意志だけでは日本の他球団には行けないという“縛り”を球団側がかける意味合いがあった。任意引退の場合、国内では近鉄の容認がなければ他球団への移籍はできない。しかし、米国に渡れば「unconditional release」の扱い、つまりはフリーエージェント(FA)の立場で、米国全球団を対象とした直接交渉、移籍に関しても完全に自由になる。 それが野茂にとって、夢の世界へ旅立つために必要な“パスポート”となった。 「不安は、全くありません。球団に認めてもらったし、すごく理解してくれた。本当に感謝しています。これでスッキリしましたし、スッキリした形で行ける。よかったです」 当時、サンケイスポーツ大阪の「猛牛番」だった私は、大阪から東京へと急きょ、取材の舞台が移ることになった。 続きはソースで…