
1: それでも動く名無し 2026/06/09(火) 07:22:59 ID:5WKeueeU0 内田梨瑚被告への怒りや量刑への違和感は人として自然 それでも法廷が「市民感覚」だけで裁けない本質的な姿勢 内田梨瑚被告への怒りや量刑への違和感は人として自然 それでも法廷が「市民感覚」だけで裁けない本質的な姿勢(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース 北海道留萌市の女子高校生が命を奪われた事件は、多くの人々に強い衝撃と怒りを与えた。報道によれば、被害者は監禁・暴行を受け、衣服を脱がされたうえで、アスファルトの上で土下座させられた挙句、橋の欄干にYahoo!ニュース 懲役27年という求刑に対して、「軽すぎる」という声が多く集まった。 なぜ、人々はこれを「軽い」と感じたのだろうか。 そこには、「応報的正義観」がある。 人間には、重大な危害を加えた者には相応の苦痛が返されるべきだという進化的・文化的に根付いた規範感覚があり、これは道徳心理学において多くの研究がある。 次に、「公正世界信念」の役割が指摘できる。 この認知的枠組みでは、被害の深刻さと処罰の重さが比例するべきだという直観が機能するため、被害が甚大であるほど、それに見合う重罰を期待する傾向が強くなる。 判決は「市民感覚」だけで決まるものではない。 法廷における判断は、報道や断片的情報ではなく、体系的に精査された証拠の全体に基づくため、そもそも「市民感覚」とは構造的に非対称なものである。 感情と法的判断は相互に排他的ではないが、量刑が感情的要求のみに従属するならば、法治の原則は形骸化する。 法治国家における刑罰は、感情的充足ではなく、証拠・先例・刑事政策的根拠に基づかなければならない。 判決に納得できないこと自体は問題ではない。 しかし、「納得できない」ことと、「判決が間違っている」ことは同じではない。 われわれは、ときに感覚的に納得のいかない判決に怒りを抱きながらも、その判断がどのような証拠と法的基準に基づいて行われたのかを理解しようとする姿勢を持つ必要がある。 本件に対する怒りは正当である。 しかし、その怒りを処罰感情の増幅のみに向けることは、問題の本質とはかけ離れている。 感情は道徳的応答の出発点であるが、それだけでは公正な社会の設計には不十分である。 怒りを論理的・制度的問いへと変換する知的営みこそが、この事件から社会が引き出しうる最も重要な教訓であろう。 原田 隆之 :筑波大学教授…