1: ペンシクロビル(秋田県) [US] 2026/03/15(日) 11:10:35 中国大返し(1582年) ◆敵将:明智光秀(1528〜82) 備中高松城攻めの最中に本能寺の変の急報を聞いた秀吉は、講和を急いでまとめ、毛利方に悟られないよう撤退を開始する。 そして信長の弔い合戦のため、畿内を目指して前代未聞の急行軍“中国大返し”を敢行した。 天正10年(1582)6月4日、備中高松城主の清水宗治が切腹すると、秀吉は6日午後に高松を出発し、わずか一昼夜で約80kmの行程を走破して居城の姫路に到着した。 丸一日休んで英気を養ったのち 11日の朝に尼崎に達して、明智光秀との決戦の態勢を整えた。 ◆信長の氏は寝耳に水 本能寺焼討之図 明治29年(1896)、楊斎延一筆。 本能寺の変を題材とした錦絵。 明智勢の武将・安田作兵衛 (中央)が槍で織田信長(右)を狙い、それを森蘭丸(左)が阻止せんとしている。 東京都立中央図書館蔵 強行軍を可能にした理由 秀吉軍が迅速に畿内に戻れたのは、秀吉が本能寺の変を予見していたからだという説もみられる。 しかし小和田哲男さんは「それはない」と断言する。 「大返しのスピードの理由はふたつあげられます。 まずひとつは、山陽道を事前に整備していたことです。 それも要所にマラソンの給水所のような形で食糧や水などを備蓄していました。 信長が秀吉軍救援のために山陽道を 下向するにあたって、秀吉が主を迎えるために準備したものでした。 それを逆に自分が利用したわけです」 急行軍を可能としたもうひとつの理由を小和田さんはこう語る。 「かつての黒田官兵衛の居城で、秀吉に進呈された姫路城の存在です。 おあつらえ向きの場所に本拠を置いていたがゆえに、しっかりと休息がとれ、兵の士気も維持できた。 この2点が中国大返しの大きなキーポイントと考えています」 豊臣秀吉の超軍略|常識をはるかに超えたスピードですべてを出し抜く「電撃戦」(サライ.jp) - Yahoo!ニュースどこから出てきたのか。足軽あがりのその者には稀なる才が宿っていた。その才を持って、民草(たみくさ)から天下人へと駆け上がった、日本史上ただひとりの男。豊臣秀吉。その謎に満ちた生涯を、解き明かす。秀吉Yahoo!ニュース…