
1: 七波羅探題 ★ j+Nm/DBT9 2026-03-12 18:57:31 定年退職は、長い仕事人生の区切りであると同時に、夫婦の生活が大きく変わるタイミングでもあります。仕事中心の生活から家庭中心の生活へと移ることで、夫婦の距離感や役割分担が一気に変化するからです。内閣府『令和7年版 高齢社会白書』によると、65歳以上の世帯のうち、夫婦のみ世帯は約3割を占めています。退職後の変化をきっかけに、これまで表に出なかった夫婦関係の問題が浮かび上がることもあります。 「長い間ありがとう。本当にお疲れさまでした」 そう言って、由美子さん(仮名・58歳)は退職を迎えた夫・正人さん(仮名・60歳)のために、小さな食事会を用意しました。正人さんは大手メーカーに40年近く勤め上げ、この日が最後の出勤日でした。テーブルには夫の好きな料理が並びます。子どもたちはすでに独立しており、その夜は夫婦二人きりの静かな退職祝いでした。 「ここまで働いてこられたのは、お前のおかげだ」 そう言って、正人さんは何度もグラスを掲げました。長い会社生活を終えた安堵もあったのでしょう。最後には目を潤ませながら、妻に感謝の言葉を繰り返していたといいます。由美子さんもまた、ようやく一区切りがついたような気持ちでした。 「これからは二人でゆっくり暮らそう」 そんな未来を、自然と思い描いていたそうです。ところが翌朝、朝食の席で由美子さんは静かに言いました。 「正人さん、少し話していい?」 夫は新聞を畳み、「どうした」と聞き返しました。由美子さんは少し間を置いてから、こう続けました。 「私、これからは別々に暮らしたいと思っているの」 その言葉に、正人さんは一瞬、何を言われたのか理解できなかったといいます。「……どういうことだ?」 昨夜、退職祝いの席で「ありがとう」と言っていた妻が、その翌朝に突然「別居」を切り出したのです。由美子さんは、長い間考えてきたことを少しずつ話しました。 「あなたが仕事を辞めたら、変わるんじゃないかと思っていたの」 正人さんは会社中心の生活が長く、家庭のことにはほとんど関わってきませんでした。平日は帰宅が遅く、休日も仕事の電話や付き合いが入ることが多かったといいます。そのため家のことは、ほぼ由美子さん一人で回してきました。 「忙しいのは分かっていたから、私も何も言わなかった。でも……退職したら、少しは一緒に暮らす形も変わるのかなと思っていたの」 退職前の有給休暇の消化などで夫が家にいる時間が増えた頃から、由美子さんはあることに気づきました。家にいても、夫の生活はほとんど変わらなかったのです。食事の準備も、洗濯も、家のことはすべて妻任せ。夫はテレビを見て過ごし、何か頼まれると「今はいいだろう」と言うこともありました。 「このまま毎日こういう生活が続くのかと思ったら、正直つらくなったの」 正人さんにとって家は「休む場所」でした。しかし由美子さんにとっては、長年家事を担ってきた生活の場でした。仕事をしていた頃は、夫が家にいる時間は限られていました。それが退職によって一日中同じ空間にいる生活へと変わることで、これまで見えにくかった違いが一気に表面化したのです。 内閣府『高齢社会白書』でも、退職後の生活では「時間の使い方」や「夫婦関係」が課題になることが指摘されています。長年の結婚生活でも、生活のリズムが変わることで関係のバランスが揺らぐことがあるのです。 「嫌いになったわけじゃないの」 由美子さんはそう言いました。 「でも、このまま同じ生活を続けるのは、私には無理だと思った」 その言葉を聞いたとき、正人さんは初めて、妻がどれほど家のことを担ってきたのかを考えたといいます。 「そんなふうに思っていたなんて、知らなかった」 そう口にすると、由美子さんは少し笑いました。 「言ってこなかったからね」 結局、二人はすぐに離婚するわけではなく、しばらく距離を置くことにしました。正人さんは近くの賃貸に住み、生活を立て直すことになったのです。料理や洗濯を自分で始めたことで、正人さんは初めて「家のこと」の大変さを実感したといいます。退職祝いの席での「長い間ありがとう」という言葉は、嘘ではありませんでした。由美子さんも、夫の仕事人生を支えたことを誇りに思っていました。ただ、その感謝と、これからも同じ形で暮らせるかどうかは別の問題だったのです。 「退職はゴールじゃなくて、新しい生活の始まりなんですよね」 長い間続いてきた夫婦の形も、人生の節目で見直しを迫られることがあります。退職の翌朝に交わされたその言葉は、二人にとって、これからの暮らし方を考え直す大きなきっかけになりました。 THE GOLD ONLINE3.12…