
2: 名無しのアニゲーさん 2026/02/22(日) 00:26:58.09 ID:pKEJ8jV+0 3: 名無しのアニゲーさん 2026/02/22(日) 00:27:41.17 ID:pKEJ8jV+0 他者の命は軽い 2025年10月。旅先で、宿泊していたヴィラが燃えた。寝ているあいだの出来事だった。命について考えさせられたあの火事のことを、ここに書いておきたい。 10月は、夫の誕生日だった。 節目の歳だし、うんと奮発して贅沢な宿に行ってみよう、行き先は北海道にしよう、と盛り上がった。夫が好きなサウナがあって、静かなところ。いろいろ調べて、広い敷地に一棟貸しのヴィラが4棟だけという宿を予約した。空港から車で30分ほどなのも魅力だった。 夫は、週刊少年誌で漫画を描いている。7日に1度〆切がある生活が、かれこれ20年以上続いている。普段休みが1日もない夫にとって、旅行は、唯一プレッシャーから解放される、とても大切なものだった。充実した2泊3日になるよう、私もあれこれ計画を立て、楽しみにしていた。 行ってみると、ヴィラはとても洒落たデザインだった。 広さは130平米ほど。中はふたつに分かれていて、暖炉がついたリビングと、寝室棟がある。聞けば、開業してまだ1年ちょっととのことだった。 「必要なときは、この電話でご連絡ください」 携帯を渡され、宿の人がいなくなると、あとは静かな時間が待っていた。その日は宿でのんびり食事やお風呂を楽しみ、翌日の観光のため、早めにベッドに入った。 けたたましい警報音で飛び起きたのは、深夜1時半ごろだった。 「別ノ部屋デ火事デス! 別ノ部屋デ火事デス! 別ノ部屋デ火事デス!」 爆音のサイレン。心臓がぎゅっとなる。別の部屋? 火事って? 私たちは訳もわからず、暖炉があるリビングに向かった。 「なにこの煙!」 扉を開けると、室内にはすでに煙が充満していた。目をこらすも、なにか燃えている様子はない。じゃあなぜ? 夕食後に暖炉をつけたけど、その火がくすぶってるの? すぐにレセプションに電話をかけた。ところが。 「それなら、換気してください」 言われたのはそれだけだった。え、誰も来てくれないの? 状況を見ないで判断するってことは、こういうの、よくあるの……? そのあいだも、警報音は鳴り続けている。とにかく換気しなくては。煙の中、私たちは開けられる場所をすべて開け、手近なもので必死に室内をあおいだ。全身がひどくすす臭くなったころ、ようやく音が止んだ。 「よ、よかった……」 けれど。一息つくまもなく、またも警報音が鳴るのだ。 「火事デス! 火事デス! 火事デス! 火事デス!」 こんなことが、何度も続いた。どうして? 誤作動? だいたいこの煙どこから出てるの、かれこれ1時間以上換気してるのに。 夫の叫び声が聞こえたのは、そのときだった。 「この警報音は誤作動じゃない! 外壁が、燃えてる!」 え、外? 見に行って、ゾッとした。ヴィラの外壁が、内側から真っ赤になっていた。ちょうど炭が燃えるときのような、籠った赤い色が広がっている。これはまずいやつ、と一目でわかった。 「レセプションに電話して!」 けれど、やっと到着した宿のスタッフは、消火器の場所も、対処法も把握していなかった。「上に確認します」と言い残すと、その人は私たちを置いて、どこかへ消えてしまった。 結局、夫が消防車を呼んだ。そのあいだに私は、部屋中の荷物をかきあつめ、ぐちゃぐちゃのままレンタカーに押し込んだ。 消防車が到着したときには、午前3時を回っていただろうか。 チェーンソーで壁が壊され、消火活動がはじまった。私たちは、消防と警察、双方に事情を聞かれ、寝間着に一枚羽織った状態で聴取に応じた。職業、年齢、住所、ヴィラについてからの詳細な行動――。終わって解放されたのが、4時半。夜が明けて8時にまた聴取がありますと言われた。 幸いにもヴィラは、壁が大きく焼けたものの、それ以外は無事のようだった。私たちは、空いていた隣のヴィラで仮眠をとることになった。屋外で立ちっぱなしだった体は冷え、全身すす臭い。疲れ切って少しまどろんだら、もう朝だった。 4: 名無しのアニゲーさん 2026/02/22(日) 00:29:10.05 ID:Itk+KxVUd 翌日説明された火災の原因は、「暖炉の設置ミス」。 海外製の暖炉を日本の規格でヴィラに設置してしまい、煙突を通した壁の内側が、少しずつ炭化していた。炭化が進むと、低温でも発火するようになる。私たちが暖炉に火をつけたことで、煙突が熱くなり、壁の内側が燃えて、いわゆる「炭化火災」が起きた、とのことだった。 すみませんでした、と宿のスタッフは言った。 「2泊のうち1泊は、無料にさせていただきますね。では、ごゆっくりお寛ぎください」 強烈な違和感に、すぐには言葉が出なかった。 炭化火災……? それって、一酸化炭素が大量に発生する火事なのでは。もしもあのとき、寝室じゃなく、暖炉があるリビングにいたらーー。スマホで検索してみる。一酸化炭素は無色無臭で気づきづらく、一般的な火災警報器では検知できない、とあった。 「このヴィラに、一酸化炭素を検知するものはあるんでしょうか。部屋の気密性が高いし、暖炉もあるし、サウナもテントサウナですけど……」 「一酸化炭素を検知? いえ? ありません」 宿のスタッフのきょとんとした顔は、今も忘れられない。 私と夫は、ただ呆然とすごした。ほとんど寝ていないはずなのに、眠ることはおろか、話すことも、うまくできなかった。 サウナがある宿に泊まるとき夫は、部屋でまどろんで、サウナに入って、というローテーションを深夜まで繰り返すのが常だった。この宿のソファーが体に合わず、昨夜はたまたま早めに寝室に移動したと知って、体の奥が冷えるような感覚があった。 じゃあ、もしも、夫がいつものように行動していたら。 警報音で飛び起きて私がリビングに行ったとき、夫はすでに亡くなっていたかも。仮に命が助かっても、重篤な後遺症が残ったかも。もう2度と、漫画が描けなかったかも。記憶にすら残らないようなやりとりが、最後の会話になっていたかもーー。 体に力が入らなかった。ヴィラは北海道の日差しを浴びて、キラキラと輝いている。高級感を全面に打ち出した、かくも美しい場所で、私たちの隣には確かに死があった。そのギャップに、心がついていけなかった。 結局、数十万円という宿代を請求され、私たちは東京に帰ってきた。交渉する気力は、もはや残されていなかった。 一酸化炭素検知機は一万円あれば買える。あまりに雑に扱われた自分たちの命の、その軽さ、安さに、何度も打ちのめされた。安心し切って過ごしていた場所で、私はなにを奪われようとしていたんだろう。それは夫であり、これまで根拠なく抱いていた、世界に対する信頼感だった。 宿のSNSから、火事に関する記載が削除されたのは、帰京からわずか4日後のことだった。原因を説明すると書かれていた運営会社のサイトは、いつのまにか文言が書き換えられ、詳細は今も、明かされていない。 どうすれば、あの火事を回避できたんだろう。答えはまだ見つからない。 仕事で火事のニュースを読むとき、不慮の事故を知らせるとき、争いで失われた命の数を読み上げるとき。あのとき感じた、世界の無慈悲さに対する恐怖が、今も抑えようもなく、心にどろりと蘇る。…