1: 樽悶 ★ HPmO6bZs9 2025-09-29 23:57:30 今年1月の統計で推計人口が64万人を割り込み、47都道府県で2番目に人口の少ない県となっている島根県ですが、古代史を専門とする駒澤大学名誉教授の瀧音能之氏によれば、実は弥生時代の出雲は日本有数の勢力を誇る地域だったといいます。 (省略) 『出雲国風土記』には、ヤツカオミヅヌという神が、布のような稚国(わかくに/幼い国)のため、志羅紀(新羅=朝鮮半島南東部)、北門(きたど/隠岐諸島)の佐伎(さき)と良波(よなみ)、高志(こし/越)の4つの地域から余った土地を縄でくくりつけて引っ張り、縫い合わせ、こうして本州とつながったのが島根半島だという。 この国引き神話は、土砂の堆積によって島と本州の間が埋まり平野が拡大していく様子を彷彿とさせる。綱は本州の東西にある大山と三瓶山に結ばれた。そして、その綱は薗の長浜と弓ヶ浜半島になった。 つなぎ合わせられた土地は、いずれも出雲と活発に交易を行ったエリアから運ばれたものだ。 (省略) ■過去に例を見ない大量の青銅器の出土 出雲が大きな力を持つようになったのは、島根半島が持った地理的なアドバンテージによる。 島根半島は最も近い海外の先進地域である朝鮮半島南東部、日本の先進地域である北部九州、当時の主要輸出品であるヒスイを産出する越の3つの地域とほぼ等距離(約300キロ)の位置にある。 (省略) 出雲の発展の象徴ともいえるものが、出土した大量の青銅器である。神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡(島根県出雲市)からは358本の銅剣が、加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)からは39個の銅鐸が出土している。 (省略) 加茂岩倉遺跡は神庭荒神谷遺跡から4キロほど離れたところに位置している。銅鐸が埋納されていたのは丘陵の東南部で、土坑が設けられ、鰭を立てた状態(横寝の状態)で裾を向かい合わせて置かれていたと考えられている。 両遺物には共通点があり、銅剣358本中344本に、銅鐸39個中12個に「×」印の刻印がある。この「×」印は両遺跡でしか確認されていない特徴である。 青銅器の埋納は北部九州でも多く行われており、検見谷(けんみだに)遺跡(佐賀県みやき町)の銅矛12本、隈・西小田遺跡群(福岡県筑紫野市)の銅戈23本などがある。いずれも出雲で見られるのと同様に刃を立てた状態で埋納されていた。 一方、畿内における銅鐸埋納も出雲と同様に鰭を立てた状態で行われた。 ■東西の「青銅器祭祀」が行われる聖地 神庭荒神谷遺跡では大量の銅剣に注目が集まるが、銅剣の埋納地点から約7メートル離れた場所から、同様の埋納施設跡が発見され、銅矛16本と銅鐸6個が出土した。 これらの銅矛は北部九州で作られたものと考えられ、また銅鐸の1個は淡路島で発見されたものと同じ鋳型であることが判明した。 対立的な立場とも考えられる2つの文化圏の祭祀具が、出雲で同じ土坑から発見されたのである。これは何を意味するのだろうか。 これまで北部九州の銅剣・銅矛・銅戈祭祀と畿内を発祥とする銅鐸祭祀は、対立する文化圏として語られることが多かった。実際に祭祀の共有は、同じ物流ネットワークを利用する経済的共同体としての意味を持つ。 一方で、佐賀県鳥栖市の安永田遺跡や福岡県福岡市の赤穂ノ浦遺跡などからは銅鐸の鋳型が発見されており、この鋳型によって作られた銅鐸が出雲や中国地方で出土している。高度な青銅器鋳造技術を持つ北部九州の工房が輸出用に作ったものと考えられていた。 ■吉野ヶ里遺跡で発見された「同じ鋳型」の銅鐸 ところが平成10年(1998)、吉野ヶ里遺跡で同じ鋳型の銅鐸が発見された。この銅鐸は意図的に埋納されており、北部九州でも銅鐸祭祀が行われていたことが判明した。 東西で重視する青銅器に違いがあるものの、貴重な青銅器を埋納する青銅器祭祀という点では、北部九州も畿内も共通する。 この青銅器祭祀文化圏という大きな枠で捉えた場合、その中心にあったのが出雲だったのではないか。だからこそ、北部九州も畿内も出雲に青銅器を運び、埋納したのだろう。 紀元前1世紀から後1世紀にかけて、各地の勢力に青銅器が広がっていく中で、出雲は青銅器祭祀のハブとして機能した。出雲は各地の青銅器文化が集結する中心地であり、出雲の首長は青銅器のクニの王となったことから、出雲の神は地上世界の主宰神としての神格を与えられたと考えられる。 9/22(月) 12:01配信…