1 名前:名無しさん@涙目です。:2023/10/14(土) 23:54:16.07 ID:nQ6cS+P50.net BE:902666507-2BP(1500) 略 さて、李舜臣は元均からの救援要請をうけると、全羅にもいつ日本軍が攻めてくるかわからないのに、朝廷の命令もなく越境することはできないと、いったんは拒否しました。 しかし信頼する部下から、ここは境界にとらわれず敵の先鋒を挫くじくことが全羅防衛にもつながると説得され、ついに出撃を決意します。こうして、李舜臣の戦いが始まりました 5月7日明け方、李舜臣率いる全羅水軍は日本水軍の停泊地・加徳島(釜山広域市)をめざして進んでいましたが、巨済島の玉浦に日本船が停泊しているとの報に接し、そちらを攻撃すべく転進します。 玉浦に停泊中の日本艦隊は、藤堂高虎らを将とする水軍と輸送船団でした。 朝鮮水軍の来襲を知った彼らは、数では劣っていたものの、逆に船を出して迎え撃とうとします。それに恐れをなした朝鮮水軍では戦う前に逃亡する船もありましたが、李舜臣は全軍を鼓舞し、突入を開始しました。 李舜臣の戦術は、敵船との距離を保って、弓矢による射撃と、火砲による砲撃で敵兵を圧倒するというものでした。接近戦になると日本刀をもった日本軍の斬り込みが脅威だからです。日本水軍は接近を試みては火矢を打ち込まれて次々と炎上していきました。 逃げる日本水軍を朝鮮水軍は翌日以降さらに、合浦、そして赤珍浦へと追撃し、結果として、日本船を(諸説ありますが)数十隻も焼き払う戦果をあげました。 このあとも李舜臣率いる朝鮮水軍は勢いに乗って、泗川海戦、唐浦の海戦、唐項浦海戦(第1次)、栗浦海戦、閑山島海戦、そして7月9日の安骨浦海戦まで連戦連勝でした。 そのため日本軍は海上からの補給に支障をきたすことになり、明まで一気に攻め込むというわけにはいかなくなったのです。 引用元:…