[ 1 ] コロナ禍の縛りが解け、ふたたび海外に自由に行けるようになって以降、日本にいるときに当たり前だと思っていることが、グローバルな視点から眺めると異常なのではないか、と感じることが増えている。 そのひとつは物価である。たとえば20年以上前は、ヨーロッパに行くとなにもかも安く感じた。衣類やブランドものはもちろんのこと、交通費も外食費も宿泊費も、日本で同じ水準のものを求めたら2倍、下手をしたら3倍の費用がかかるのではないか、と思うほどだった。ところが、昨今は逆で、ヨーロッパに行くとなにもかもが高い。 原因のひとつは現地の物価高だが、いうまでもなく、異常なまでの円安も大きな打撃になっている。加えて思わされるのは、いわゆる「失われた30年」である。ここ30年余り、日本人の給料が据え置かれているあいだも、各国ではそれなりのカーブを描いて上昇した。こうして海外における物価は、われわれ日本人にとって2倍、3倍と跳ね上がってしまったのである。このことは、日本の国力はそれほど低下してしまった、と言い換えることができるだろう。 残念であり、この負の状況を解消する手立てを講じることこそが、政治にとって最優先の課題ではないかと思う。最低賃金を上げて糊塗するよりも、円に力をつけさせることをふくめ、日本人の購買力を上昇させることのほうがはるかに大事ではないだろうか。 だが、日本人が購買力と同程度に失っているのではないか、と危惧する事柄がほかにもある。コミュニケーション能力である。 「国際的に見て普通ではない」 今年前半に2度ほどイタリアに行ったが、その際に見かけたり、自分が体験したりしたさり気ないコミュニケーションを、まずは思い出すままに記してみたい。 小さな商店で食料品を購入するときも、店員と買い手のあいだに会話があり、たがいに目を見て話し合っている。ホテルの廊下でほかの客とすれ違った際に、あいさつされることが多い。エレベーターにだれかと乗り合わせると、相手から先に降りるように促されることが多い。電車内で棚に荷物を載せる際に苦労していると、何人もの人に助けられる――。 上記は一例にすぎないが、帰国後に感じたのは、日本では同じような場面でのコミュニケーションのありようが、おおむね正反対だということだった。 コンビニエンスストアでもスーパーマーケットでも、多くの客がほとんど言葉を発しないまま買い物を終える。店員になにかを問われたとき相手の目を見て話すと、目を逸らされてしまうことが多い。ホテルの廊下で客同士があいさつし合うことなど、ほとんどない。エレベーターにあとから乗ってきた人たちは、後ろを一切振り向くことなく自分たちが先に降りる。新幹線などの車内では、客同士はできるだけ関わり合わないようにしており、棚に荷物を載せるのに苦労している人を、大抵の人は見て見ぬふりをしている。 日本人男性と結婚し、5年ほど前から日本に住むドイツ人女性も言う。 「日本のコンビニで買い物をするとき、相手の目を見てなにかを聞いても、目を逸らされたり怪訝な顔をされたりするのには、慣れるのに時間がかかりました。電車内やカフェなどで知らない人に話しかけても、ほとんど変な人あつかいされます。日本人はシャイだと感じますが、こうした応対はシャイである以前に国際的に見て普通ではなく、日本人にとって損だと思います」 「やまびこあいさつ」をご存じだろうか。コンビニや小売店などで、一人の店員が「いらっしゃいませ、こんにちは」とあいさつすると、ほかの店員も一斉に同じあいさつをするもので、集客力と売上げアップのために推奨されているという。しかし、これが実践されている店舗では、ほとんどの店員が客の顔を見ておらず、このドイツ人女性ははじめて「やまびこあいさつ」をされたとき、「震えるほど怖いものを感じた」と語る。人間と人間のコミュニケーションの崩壊が感じられたというのだ。 コロナ禍にコミュニケーションを忘れてしまった日本人 加えていうなら数年前、少なくともコロナ禍を迎える前までは、引っ越してきた人は近所にあいさつ回りをする例が多いと感じられたが、最近は道路を挟んで向かいに引っ越してきた人もあいさつに来ない。結果として、戸建ての住宅街でも近所にどんな人が住んでいるかわからない、という地域が増えているようだ。その話をイタリアに行った際、知人のイタリア人にすると、声を上げて驚いていた。 もともと日本人はコミュニケーションが下手だと言われており、各種調査でも、その能力がさらに低下しているという結果が出ることが多かった。 私は日本人のコミュニケーション能力は、2005年に個人情報保護法が施行されてから、目に見えて落ちたと考えてきた。当初はこの法律が、「シャイ」な日本人がますます個人の殻にこもるための大義名分となり、法が定着するにつれ、殻にこもることが血肉化していった。 そこにコロナ禍の特殊な状況が訪れ、その傾向はさらに加速したように見受けられる。 ソーシャルディスタンスを心がけ、できるかぎり会話を控えることが推奨されたコロナ禍。勤め人は、仕事を可能なかぎりテレワークで行うよう、国からも自治体からも要請され続け、大学の授業もオンラインになって、入学しても学友とめぐり会えない学生が続出した。そうしているうちに、日本人はますますコミュニケーション能力を低下させた。いや、コミュニケーションが必要であること自体を忘れてしまった人が増えた、と言ったほうが正確かもしれない。 日本に長く住むイタリア人男性が言う。 「イタリアではパンデミックのあいだ、生のコミュニケーションを取れないことに強いストレスを感じる人が多く、パンデミックが終わると一気にそれを解消した感じがします。ところが、日本人はコミュニケーションをとらないことに、ますます慣れてしまったという印象を受けます」 これは日本と欧米のコミュニケーション・スタイルの違い、という話で済まされることではない。なるべく人と関わらないという姿勢では、味気ないのはもちろんのこと、干渉し合わないのが高じて助け合いのない社会につながる。ひいては経済力をふくめた日本の国力をも規定してしまいかねない。 外国人という「他人の振り」を見て「わが振り」を直す。コロナ禍で失ったものが多い時期だからこそ、その姿勢が求められるのではないだろうか。 続きは…